Twitterで話題になっているこの問題について自分の考えを述べてみたいと思う。だいぶ感情的になってしまっているが、これも記録だと思って公開することにした。
今回問題とされているのは会田誠の「犬」と題された以下のような作品に対して、この作品は「児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」*1であるとして抗議されたことだと前提して話をすすめます。
この問題に対して私が注目するのは、まず抗議をした方々の解釈に対して、そして彼らがその解釈に則って抗議をしたことについてである。端的にいえば、彼らの行動は間違っているのかについて私的見解を述べてみたいと思います。
作品に対する解釈について
抗議をした方は会田誠の「犬」と題された作品を児童ポルノとして見ている。彼らの言葉を借りれば、会田誠の一連の作品は「少女に対する性的搾取に積極的に関与」しており、「少女および女性一般を性的に従属的な存在として扱っている社会の支配的価値観に全面的に迎合し、それをいっそう推進するものに他」ならないとして、森美術館に抗議をし作品の展示の撤去を最終的には求めていると理解できる。
まずTLでこの問題の話題として語られているのは、上記のような作品解釈は誤りであり愚かなものであるという態度の発言が幾つかみられた。しかし果たして、こうした彼らの作品解釈は誤っているだろうか。残念ながら、彼らの作品解釈を誤っているという根拠を提示するのは困難であろうと考えられる。たとえ作者が、この解釈は間違っていると公にしても、既に作品は作者の手を離れ人々の自由な解釈の目に晒されてしまっている以上、この作品の解釈に正しいものはあるといえるどうかは実に論争的なものとなるだろう。たしかに、多くの同時代の方の賛同を得られる一定の解釈はありえるだろうが*2、そうでない解釈の可能性は常に開かれているだろう。特に芸術作品となれば尚更その傾向はたかくなってしまうのではないか。ある解釈を間違っていると断定できる、正しい読みを正当化できる権威や根拠をどこに置くことが出来るだろうか。またその根拠をもって、彼らの発言を打ち消すことは正当化できるであろうか私には疑問である。
つまり何が言いたいかというと、今回の抗議に対して、抗議した者の解釈は間違っている馬鹿だと揶揄しても、問題は一切解決しないだろうと私は考えるということだ。逆に一定の解釈しか認めない狭さに胡座をかいてしまえば、それこそ敗北は免れ得ない結果になるだろう。抗議した方の解釈がかなり屈折したものだとしても、そうした解釈は十分にあり得ると考えられる。自由な解釈から導き出された理解を常識や一般的に考えれば誤った理解であると否認したとしても、抗議の声が止むことは期待できないだろう。
抗議という運動について
次にそれでは彼らが自らの解釈に則って抗議という運動に乗り出したことについて述べてみたい。
こうした行動に対してネットなどでは冷笑的な態度の者もいたが、それは誤りであるだろう。また彼らの抗議を表現の自由を侵害するものであり、認められないのではないかという問いかけがあった。
確かに彼らの抗議は作品の撤回を求めているものであるが、それが即ち表現の自由を侵害するものであるだろうか。その判断は早急すぎるだろう。彼らの行動が表現の自由を制限しようと意図したものであったとしても、実際に表現の自由の可能性が開かれている限り、その抗議の声もまた自由として認められねばならないのではないか。抗議した者達は少女や女性たちの自由を拡大するために、彼女らの権利が踏み躙られないために行動したのだと十分に考えることもできるだろう。
自由や権利は人間に生まれながらにして備わっているものだとしても、自由や権利はもともと運動によって戦いによって市民が勝ち取ってきたものでもある。彼らの考える自由が、私の考える自由と違うからと言ってその自由のための行動の禁止を求めることの方が許されないと私は考える。
彼らの抗議は確かに表現の自由をいくらか侵害する可能性があるが、その可能性を持って運動することを否認することは許されないだろう。そして幾らか公開する場所や機会としての表現の自由が害されたとしても、作者が自由な作品を描く自由や限定的に公開する自由まで侵害されるわけではないのであると考え得るのだから、やはり彼らの行動を否認することは自由主義社会においては決して許されない行為であると私は判断する。
もちろん、抗議した者達の解釈は誤りであり、この作品の意図は云々でありあなた達は誤解していると訴え、抗議者と戦うことは十分に可能であろう。会田誠本人も
☝口下手・理屈下手の僕ですが、だんまりを決め込むつもりはありません。必要とあらば出向き、誠心誠意お答えするつもりです。各位。
— 会田誠 (@makotoaida) January 28, 2013
といっているので、対話や討議の可能性は十分に開かれているという期待を胸に、締めとしたい。