追加: ノンセクト左翼運動とサブカルチャー


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投稿者 阿佐ヶ谷北 日時 19100年 1月 03日 04:46:56:

回答先: 全共闘以後のノンセクト左翼運動 投稿者 外山恒一 日時 19100年 1月 02日 17:19:58:

>  戦後左翼運動の通史的なものは多く出回っているが、もう2000年だというのにその多くは1971、2年まで、つまり全共闘運動終焉までを描いた「通史」だ。まれに「全共闘以後」にページを割いたものがあったとしても、それらはすべて例外なく、「左翼運動史」ではなく単なる「その後の新左翼セクト史」の記述に終始している。要は、70年までに登場した数多の新左翼セクトがその後どう四分五裂して現在に至るか、という話だ。高木正幸の『全学連と全共闘』『新左翼30年史』、高沢コージの『全共闘グラフィティ』、菅タカユキの『フォー・ビギナーズ全学連』……すべてそう。
>  こういう状況にぼくはムカついているのである。
>  全共闘以後も、魅力的な左翼運動は数多く存在するのに、それらは歴史に埋もれてしまっている。このままでは、10年後の左翼運動家は「だめ連」や「全貧連」も知らない、ということに当然なるだろう。
>  現在ぼくは、全共闘以後の左翼運動史をきちんと記録に残しておく必要を痛感している。
>  しかし、残念ながらぼく自身、自分がそのテの運動に当事者として関わりはじめた80年代末以降の情勢についてはかなり知っているけれども、全共闘以後80年代半ばまでの運動に関しては断片的にしか知らない。
>  そこで、このサイトには以前書き込みしたようにいろいろ思うところはあるのだけれど、こういう情報はここで集めるしかあるまいと観念して書き込むものである。


>  とりあえず、まずは以下の事柄に関して情報を持っている方、教えてください。
>  ・全共闘運動は70年の「全国全共闘」結成を境に衰退したというのが定説となっていますが、実際には、その後もかなり長いこと各大学に全共闘は残っていたと聞きます。最終的には、いつ、どんな形で終息してしまったのでしょうか。大学ごとの個別情報でいいので教えてください。
>  ・全共闘以後の新左翼セクトでぼくの興味をひくのは吉本隆明派の人々だけです。「叛旗派」あるいは「情況派」が吉本派だったと聞きますが(間違ってたら指摘してください)、彼らはどんな運動を展開していたのでしょうか。
>  ・橋本治や中森明夫、浅羽通明の云う「80年安保」という現象が80年前後にあったようですが、私見を述べるとそれは政治運動を欠いた左翼運動であったように思います。つまり普通は政治・思想・芸術の三者一体となった形で展開する左翼運動が、思想と芸術の分野に限定されて展開したという意味です。しかしその時期にも左翼の政治運動は存在したはずです。80年前後、左翼政治運動はいわゆるポストモダン思想や、小劇場運動やパンク・ムーブメントなどのサブカルチャーとどのような影響関係にあったのでしょうか。それともあまり関係なく展開してしまったのでしょうか。
>  ・80年代前半のノンセクト左翼運動のテーマはどのようなものだったのでしょうか。学生運動に関しては、よく、「日韓連帯」とか「反原理」とかが結集軸になっていたと聞きますが、具体的には、どんな運動が、どんな経緯で展開したのでしょうか。

>  以上、情報を持っている方、よろしくお願いします。また、80年代末以降の情勢については、質問されれば知っている限りでお答えします。
>  あと、ぼくのホームページは「http://home.att.ne.jp/blue/supportista/toyama/」に移動しています。事情により昨年夏以来、まったく更新できていません。今後もしばらくできないと思います。

サブカル(80年安保)と80年代ノンセク運動シーンについて先のカキコで言及
していなかったので、少し追加します。
活動家においてオタク濃度(80年代半ばまではオタクという言葉は存在せず、マニアといっており、今のようなオタク差別はなかった)は結構高かったと思います。私自身もSFと漫画に耽溺するオタク系でした。(今は、毎晩12時までの残業と土日出勤のため、オタク血中濃度は薄くなりましたが、そのかわりDRUG系かつ若干サイコ系になり、SSRIとハルシオンの毎日です。)24組の萩尾望都等は最低限の一般教養でした。アニメに関してはバリバリ共産党の宮崎駿よりも、もろ新左翼の活動家だった押井守の人気が高かったような気がします。ビラに峰富士子のイラストかいてた女性活動家(セクトでしたが)もいました。漫画評論家の大塚英志も筑波大のノンセクの活動家として、学部長室占拠したなどと自分の本に書いていましたが、筑波の本物のノンセク出身者の話では、どうもうそのようです。
今現在エロ漫画家として活躍中の山本夜羽氏もかかわっていたらしい、反天皇制個人共闘「秋の嵐」も同時期に活動を開始したと記憶しています。C大のバンド「テーゼ」の○○さんが、原宿のホコ天で公安にパクられた写真が、当時のサブカルの教科書に「宝島」にのりました。
あと、付け加えるならば、パンクス、特にハードコア系のひとが中核派、戦記派、アナ連などに多かったようです。H大中核派の80年代半ばの諸君は、埼玉の反戦高協のハードコアパンクスの高校生諸君が、83〜84くらいに、どっさり入ったため、金髪のひとがやたら多かったと記憶しています。また、アナーキスト系(アナ連、ほんとに極少数)のわかいのも、ハードコアのバンドを組んでおり、パンクスはすべからく政治的にもアナーキストたるべしのようなことをいってました。(UKでは実際CRASS等の例があるため)。当時盛り上がってたバンドのインディーズシーンにおいても、戦旗派(西田AND日向)等に加入歴のあるひとは、かなり頻繁にみられたものです。
直接、ノンセクの運動形体に関係してくるのが、演劇関係で、いわゆるアングラ3派、すなわち、リ団からわかれた、外山さんが「暗黒」とホームページに書いてた「風の旅団」、「夢一族」、「水族館劇場」です。旅団については、89年の東大駒場での事件が有名ですので、あえてここでは書きません。水族館劇場は90年に、C大文連の企画で、学内にテントを設けて、文化運動の一環として上演しました。実は、その前年に、ちょうど第2次天安門事件の最中、文連の自主企画として、臨時編成の「ユリアヌス」という演劇ユニットを組み、中大ノンセクト有志およびH大中核派のおちこぼれ、およびアナ系(アナ連及び山谷の底辺共闘)というめちゃくちゃな組み合わせで、芝居を当局の許可なしに学内にテント勝手に張って強行しましたが、大失敗に終わりました。(そこらへんの詳しい経緯はこのBBSの下の方の99/11/07付けの「全然、タブーじゃないです。89、中大ユリアヌス事件」の投稿をよろしければ、参照してください。)
最後に、アイドル関係ですが、学園祭の夜、酔っ払ったいきおいで、カク○のサークル室にマスターキーをつかって侵入したところ、当時人気だった浅香唯のぽすたーが這ってあり、彼らもやはり人間なんだと、しみじみ思った記憶があります。
どうも、まとまりのない文章になってしまいました。


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