古代ギリシャの壺に描かれたナウシカアー。左から、オデュッセウス、アテーナー、ナウシカアー。
〓先月ですね、“ナウシカ” という名前について書きました。
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10103920047.html
〓けっきょく、結論は出ずじまいでした。
〓実は、“ナウシカ” (ギリシャ語では “ナウシカアー”) という名前については、巷間 (こうかん) で流布 (るふ) している説があります。
burner of ships 「船 (複数) を燃やす者」
と言うんですね。たとえば、英語版のウィキペディアの Nausicaa の項に当たってみると、
Her name means, in Greek, "burner of ships".
http://en.wikipedia.org/wiki/Nausicaa
と記されています。しかし、ギリシャ神話に 「ナウシカアーが、数々の船に火をつけてまわった」 なんてバカげたエピソードは出てきません。あきらかにオカシイ。
【 「ナウシ」 は “船によって” 】
〓まずですね、アッシは、1つ大きな思い違いをしていた。
ναῦς naus [ ' ナウス ] 「船」。古典ギリシャ語
※さらに古いギリシャ語では *νάϝος nawos [ ' ナウォス ]
という単語を語頭に含む合成語においてですね、
ναυ- nau- [ ナウ~ ]
ναυσι- nausi- [ ナウスィ~ ]
という2通りの形が現れるのは、古ギリシャ語の *νάϝος 「ナウォス」 が、古典ギリシャ語の時代に ναῦς 「ナウス」 となってしまったことで、どこまでが語幹かわからなくなったからだ、と考えていましたが、どうやらそうではないらしい。
〓実は、古代ギリシャ人は、実に規則正しく、2つの形態を使い分けていたのです。ちょっくら、ναυσι- nausi- で始まる古典ギリシャ語の合成語を見てみましょう。特に、“語義” に注意してください。
ναυσικλειτός nausi-kleitos [ ナウスィクれイ ' トス ] <形容詞>
「船々によって名を馳せている、海で名をとどろかせている」
ναυσιπέδη nausipedē [ ナウスィ ' ペデー ] <名詞>
「ともづな、もやいづな」 ← 「船の足かせ」
ναυσιπέρατος nausiperātos [ ナウスィ ' ペラートス ] <形容詞>
(川・海が) 「船で渡りうる、船で横断しうる」
ναυσιπόμπος nausipompos [ ナウスィ ' ポンポス ] <形容詞>
(風が) 「順風の」 ← 「船を運ぶような」
ναυσίπορος nausiporos [ ナウ ' スィポロス ] <形容詞>
(川が) 「船で渡りうる」
ναυσιπόρος nausiporos [ ナウスィ ' ポロス ] <形容詞>
「船旅の、船で行く」、「船を駆る、船の速度をあげる」
ναυσίστονος nausistonos [ ナウ ' スィストノス ] <形容詞>
「船に向かって嘆き悲しむ」
ναυσιφόρητος nausiphorētos [ ナウスィ ' ぽレートス ] <形容詞>
「船で運ばれる、船旅の」
〓 Liddell & Scott に掲載されているのは以上の8語です。
〓 ναυσι nausi 「ナウスィ」 というのは、ναῦς naus 「ナウス」 の 「複数与格」 の形です。“与格” (よかく) というのは、英語しか学ばなかったヒトには耳ナジミがないかもしれません。しかし、ドイツ語やロシア語を学んだヒトなら周知でしょう。ドイツ語学のほうでは 3格 とか Dativ 「ダーティフ」 などとも言います。英語で言うなら 「間接目的語」 に当たります。
Give me some water!
※ me が 「与格」。some water は 「対格」 にあたる
〓しかし、ドイツ語やロシア語の “与格”、あるいは、英語の “間接目的語” と比べたときに、古典ギリシャ語の “与格” は、その用法がかなり違います。
(1) 「~に」、「~のために」、「~の方へ向かって」
〓これが本来の “与格” の用法で、他の印欧語とも共通しています。英語では、代名詞の場合は me, him, her, them などを使いますが、普通の名詞は格変化を失ってしまったので、to ~ (~に)、for ~ (~のために) などの前置詞を使います。
(2) 「~を使って」、「~に乗って」、「~によって」、「~といっしょに」
〓これは、印欧語では、本来、“具格” (ぐかく) という格を用いて示していましたが、ギリシャ語では “与格” に吸収されてしまったのですね。ロシア語で言うところの “造格” (ぞうかく) というのが、印欧語の “具格” に当たります。英語では、前置詞を使って、by ~ (道具・乗り物)、with ~ (同伴) と言い表しています。
(3) 「~において」
〓これは、本来、印欧語で “処格” (しょかく)、“於格” (おかく)、“地格” (ちかく) などと呼ばれる “場所をあらわす” 格が、ギリシャ語では “与格” に吸収されてしまったものです。現代のほとんどの印欧語では “処格” を残していません。ロシア語などのスラヴ語では “前置格” として残っていますが、つねに、前置詞とともに使われるので、純粋に “処格” が残っているとは言えません。英語では、in ~、at ~ など、場所を示す前置詞であらわされています。
〓このような古典ギリシャ語の “与格” の用法と照らし合わせてみると、ναυσι- 「ナウスィ~」 に始まる合成語が、デタラメに造語されたのではないことがわかります。
【 「船に」、「船のために」、「船に向かって」 to ships, for ships の意味 】
ναυσιπέδη nausipedē [ ナウスィ ' ペデー ]
「ともづな、もやいづな」 ← 「船のための足かせ」
ναυσίστονος nausistonos [ ナウ ' スィストノス ]
「船に向かって嘆き悲しむ」
【 「船によって」、「船に乗って」 by ships の意味 】
ναυσικλειτός nausi-kleitos [ ナウスィクれイ ' トス ]
「船々によって名を馳せている、海で名をとどろかせている」
ναυσιπέρατος nausiperātos [ ナウスィ ' ペラートス ]
(川・海が) 「船で渡りうる、船で横断しうる」
ναυσίπορος nausiporos [ ナウ ' スィポロス ]
(川が) 「船で渡りうる」
ναυσιπόρος nausiporos [ ナウスィ ' ポロス ]
「船旅の、船で行く」、「船を駆る、船の速度をあげる」
ναυσιφόρητος nausiphorētos [ ナウスィ ' ぽレートス ]
「船で運ばれる、船旅の」
【 例外 (対格の意味) 】
ναυσιπόμπος nausipompos [ ナウスィ ' ポンポス ]
(風が) 「順風の」 ← 「船を運ぶような」
〓不適格な造語と見られる単語が1つ見えますが、他は、きれいに “与格” の意味を保持しています。
〓ギリシャ語は文語を形成した時期が古く、紀元前5~4世紀には、日本人もよく知る、ギリシャ悲劇やプラトンなどの著書があります。ギリシャ語の文法は、紀元前1世紀に文語が成立したラテン語と比べると、不規則で、例外的な部分が多く、造語法については、かなり自由な面があります。
〓ラテン語の場合、名詞・形容詞を造語要素に使う場合、ほとんどの場合、語幹を用いるのですが、ギリシャ語では、語幹の他に、主格形、属格形、与格形、対格形、および、古い時代の 「処格形」 を使う例があります。ナンでもあり、といった風情です。
〓実際、
ναυσίπορος nausiporos [ ナウ ' スィポロス ]
(川が) 「船で渡りうる」
ναυσιπόρος nausiporos [ ナウスィ ' ポロス ]
「船旅の、船で行く」、「船を駆る、船の速度をあげる」
については、語幹 ναυ- nau- を使った
ναύπορος nauporos [ ナ ' ウポロス ]
ναυπόρος nauporos [ ナウ ' ポロス ]
という語形もあり、特に 「船で」 ということを強調するのでなければ、ναυσι- は ναυ- でもかまわないことがわかります。
〓逆に言うと、
ναυσι- nausi- [ ナウスィ~ ] で始まる合成語は、「船のための」、「船へ向かって」、
「船によって、船に乗って」 という意味を、ことさら、強調するときに使うものである
ということがわかります。つまり、「ナウシカアー」 という名前は、「船のための、船へ向かって、船によって、船に乗って」 といった “与格” の意味が含まれていることがわかるのです。
〓ここで、最初の俗説 burner of ships に戻ってみると、「船を燃やす者」 という解釈に、すでに、ボロが出ているのがわかります。つまり、「船を燃やす」 という単語を造語する場合、「船」 は “語幹” ναυ- 「ナウ~」 か “対格” ναῦν- (単数)、ναῦς- (複数) でなければなりません。(実際には、対格を使って造語された合成語は1語もありません)
〓 burner of ships という説は、「ナウシカアー」 の語末の部分である -κάα -kaā [ ~ ' カアー ] を καίω kaiō [ カ ' イオー ] 「火をつける、燃やす」 と解釈しているので、だとすると、この動詞は 「対格」 を取らねばなりません。
【 他にもあった 「ナウスィ~」 で始まる名前 】
〓今度は、少し、別の面から攻めてみましょう。
〓実はですね、「ナウシカアー」 の他にも、わずか3つですが、ναυσι- nausi- に始まる古代ギリシャの名前を見つけることができました。
Ναυσίνοος nausinoos [ ナウ ' スィノオス ] 「ナウシノオス」
Ναυσίθοος nausithoos [ ナウ ' スィとオス ] 「ナウシトオス」
〓この2人は、ギリシャ神話に登場する兄弟で、オデュッセウスと女神カリュプソーの子どもです。ναυσί- nausi- の意味は、すでにOKですね。では、
-νοος -noos
-θοος -thoos
の意味を調べてみましょう。
〓ギリシャ語では、合成語の第2要素に、
「動詞の語幹・語根」 + -ος
というものを持ってきて、「~する」 という形容詞をつくることができます。英語で言うところの 「現在分詞」、playing, sleeping などの ~ing 形に相当します。
〓このタイプの造語をおこなう際には、動詞の語幹の母音が ε である場合は ο に交替します。すなわち、
νέομαι neomai [ ' ネオマイ ] 「行く」
↓
νε- ne- ※動詞の語根
↓
νο- no- ※ e を o に変える
+
-ος -os
↓
-νοος -noos [ ~ノオス ] 「行く(ところの)」 going
θέω theō [ ' てオー ] 「走る」
↓
θε- the- ※動詞の語根
↓
θο- tho- ※ e を o に変える
+
-ος -os
↓
-θοος -thoos [ ~とオス ] 「走る (ところの)」 running
〓どうですか、実に明快ですね。「ナウシノオス」、「ナウシトオス」 という兄弟は、それぞれ、
ναυσίνοος nausinoos 「船で行く(者)」 ship-going
ναυσίθοος nausithoos 「船で走る(者)」 ship-running
という意味なのです。“走る” というのは、船がスーッと進むようすを言うのでしょう。英語でも the ship is running という言い方をします。
〓ところで、実在の人物にも 「ナウスィ~」 の名を持つ人物がいます。
Ναυσιφάνης nausiphanēs [ ナウスィ ' ぱネース ] 「ナウシパネース」
〓紀元前4世紀のギリシャの哲学者の名前です。こちらの 「~パネース」 は動詞から、直接、つくることができません。同じ造語要素を持つ人物に、有名な 「アリストパネース」 Ἀριστοφάνης Aristophanēs がいます。
φαίνω phainō [ ぱ ' イノー ] 「現れる」
↓
φαν- phan- ※動詞の語根
+
-ᾱ -ā 「行為」 をあらわす名詞をつくる接尾辞
↓
φανη phanē [ ぱネー ] 「現れること」
+
-ς -s 「男性主格」 をあらわす語尾
↓
φάνης phanēs [ ' ぱネース ] 「現れる者」
〓接尾辞 -ᾱ [ ~アー ] が -η -ē [ ~エー ] に変ずるのは、アテーナイを中心とする アッティカ方言では、ι、ε、ρ ( i、e、r ) のあと以外では、-ā という音が -ē に変じるというクセがあったからです。
〓古代ギリシャ人の男子名が 「アリストテレース」 だとか 「ソポクレース」 というふうに 「~エース」 で終わることが多いのは、この方式で造語しているからなんですね。
〓けっきょく、
Ναυσιφάνης Nausiphanēs 「ナウシパネース」 =「船に乗って現れる者」
という名前だとわかります。面白い名前ね。
【 「ムソルグスキー」 にも含まれる “~するところの” という合成語 】
〓ここで、「ナウシカ」 に戻りましょう。Ναυσι- Nausi- の意味はもう了解済みですね。ならば、
-κάα -kaā [ ~ ' カアー ]
とはナンなのか、ということです。
〓どうやら、俗説に言う burner of ships と同様、
καίω kaiō [ カ ' イオー ] 「火をつける、燃やす」
と取るべきようです。この動詞は、本来、
*καϝίω kawiō [ カ ' ウィオー ]
だったと考えられています。これは、
καυ- kau- [ カウ ]
という語根に 「イオタ現在」 と呼ばれる -ιο、-ιε が加えられて現在語幹がつくられたものです。つまり、本来の現在語幹は *καϝ-ιο- 「カウィオ」 でした。
〓「~パネース」 のもとになった動詞 φαίνω phainō [ ぱ ' イノー ] も、
φαν- phan- 語根
φαιν- phain- 現在語幹
※「現在語幹」 というのは、現在形の人称変化の基礎になる部分
となっています。造語の段階で、いきなり、φαιν- phain- 「パイン」 が φαν- phan- 「パン」 になってしまうのにも理由があるのです。
φαν- phan- [ ぱン ] 語根 「現れる」
+
-ιο- -io- 現在語幹を形成する母音
↓
φαν-ιο- phan-io- [ ぱニオ ] ※本来の 「現在語幹」
↓
↓ ν と ι が転倒する
↓
φαινο- phaino- [ ぱイノ ] ※実際の 「現在語幹」
〓つまり、ここで言いたかったことは、
καίω 「カイオー」 の語根は καυ- kau- 「カウ」 である
ということです。
〓ここから、
*-κάϝος -kawos [ ~ ' カウォス ] 「燃やす(ところの)、火をつける(ところの)」
という造語要素が得られます。古典ギリシャ語の段階で、母音間の ϝ [ w ] は脱落していますから、
-κάος -kaos [ ~ ' カオス ]
が導き出されます。
〓ならば、
*-κάα -kaā [ ~ ' カアー ] 「火をつける(女)、燃やす(女)」
という造語が成り立つか?というと、そうは問屋がおろさないんでありますね。
〓2番目の造語要素に 「動詞から派生した -ος 」 に終わる成分を持つ合成語は、形容詞として機能しますが、-ος に終わる形容詞であるにもかかわらず、
男女同形
なのです。
〓ギリシャ語の辞書をナニゲなくパラパラとめくっていると、
ἀνδροκτόνος androktonos [ アンドロク ' トノス ] 人を殺す、人殺しの
というような合成語による形容詞の変化の表示が、
~, ον
となっているのに出くわします。通常の形容詞は、
καλός, ή, όν 「美しい」
というふうに記述されます。すなわち、
καλός kalos [ カ ' ろス ] 男性形
καλή kalē [ カれ ' エ ] 女性形
καλόν kalon [ カ ' ろン ] 中性形
を省略して示したものです。ですから、
ἀνδροκτόνος, ον
と表示してあったら、それは、
ἀνδροκτόνος androktonos [ アンドロク ' トノス ] 男性形
ἀνδροκτόνος androktonos [ アンドロク ' トノス ] 女性形
ἀνδροκτόνον androktonon [ アンドロク ' トノン ] 中性形
の意味なんです。女性形が -η ( -ᾱ ) という語尾を取らない。つまり、形態上の女性形が欠如しているんです。こういう単語は、古典ギリシャ語にはひじょうに多い。
〓こうした合成語は、古い時代のギリシャ語で、もともと、形容詞ではなかったものが、のちに形容詞に転用されたために、女性形を欠いていると言われます。
〓まれに、
ἀνδρομάχος andromakhos [ アンドロ ' マこス ] 「人と戦う」。男性形
ἀνδρομάχη andromakhē [ アンドロ ' マけー ] 女性形
ἀνδρομάχον andromakhon [ アンドロ ' マこン ] 中性形
← μαχ- ← μάχομαι makhomai [ ' マこマイ ] 「戦う」
というふうに、女性形も含め、3形を持っている合成語もあります。
〓しかし、こうした女性形は、先ほど “ナウシパネース” のところで登場した 「行為をあらわす名詞」 をつくる接尾辞 -η ( -ᾱ ) を付けた語が転用されたとも解釈できます。
Ἀνδρομάχη andromakhē [ アンドロ ' マけー ] 「人 (夫) との戦い」
〓つまり、「アンドロマケー」 というギリシャ神話に出てくる固有名詞があった影響で、この語が 「男性―女性―中性」 という3形を持つに至った、とも考えられるわけです。それほどまでに、この系統の 動詞から派生した -ος に終わる形容詞は女性形を持ちません。
〓ロシアの作曲家 「ムーソルクスキイ」 (ムソルグスキー)
Мусоргский Músorgskij [ ' ムーソルクスキイ ]
の語源は、古教会スラヴ語 (≒古ブルガリア語) の
Мѹсѹргъ Musurgŭ [ ムスルグ ] (アクセント不明) <男性名詞> 「芸術家」
を通して、ギリシャ語の
μουσουργός mūsūrgos [ ムースール ' ゴス ] <女性名詞>
「芸術の神々ミューズ (ムーサ) に捧げるための歌を歌う娘」
を借用したと考えられています。この単語は、
μουσ- mūs- ← Μοῦσα Mūsa [ ' ムーサ ] 「ミューズ」
+
ουργ- ūrg- ← ἔργω ergō [ ' エルゴー ] 「働く」。古語
+
-ος -os
↓
μουσουργός mūsūrgos [ ムースール ' ゴス ] 「ミューズのために働くところの」
という造語です。まさしく、女性名詞であるのに -ος の語尾を取っています。男女同形なのですね。
【 はたして、「ナウシカ」 の意味は 】
〓ここで、-κάα -kaā [ ~ ' カアー ] の謎解きをしてみましょう。すなわち、これは、先ほど書いたとおり、
καίω kaiō [ カ ' イオー ] 「火をつける、燃やす」
という動詞から派生した合成語をつくる要素でしょう。
*καϝ- kaw- ← *καϝίω kawiō [ カ ' ウィオー ] 「燃やす」
+
-ᾱ -ā 「行為をあらわす接尾辞」
↓
*κάϝᾱ kawā [ ' カワー ]
↓
↓ ※ ギリシャ語で、全面的に ϝ が脱落
↓
κάᾱ kaā [ ' カアー ] 「燃やすこと」
〓では、
「船で燃やすこと、船を使って燃やすこと、船のために燃やすこと」
とはナンでしょう。
〓実は、古典ギリシャ語の辞典 Liddell-Scott-Jones (LSJ) をじっくり読むと、
――――――――――――――――――――――――――――――
【 καίω 】
II. set on fire, burn.
4. Pass., of fever-heat,
: metaph., of passion, esp. of love, to be on fire,
II. 火をつける、燃やす。
4. [受動態で] <発熱により>。
<比喩的に><情熱、特に愛情について言う> 熱狂的になる。
ἐν φράςῑ καιομένᾱ en phrásī kaioménā 演説に熱狂して。ピンダロス “Pythian Odes”
κάομαι τὴν καρδίᾱν káomai tên kardíān 私の心は熱狂する。アリストパネース 『女の平和』
――――――――――――――――――――――――――――――
という “語義” が出てきます。つまり、「愛 Love の情熱を燃やす」 ということですね。受動態による用法ですが、動詞を使った合成語では、どちらの意味でも造語することができます。
〓たとえば、古典ギリシャ語には、次のような動詞から派生した合成語のペアというのが、ときおり見られます。
ξιφοκτόνος ksiphoktonos [ クスィぽク ' トノス ] 「剣で殺す」 sword-killing
ξιφόκτονος ksiphoktonos [ クスィ ' ぽクトノス ] 「剣で殺された」 sword-killed
〓英語で言うなら、「現在分詞」 と 「過去分詞」 が同一の語形をしているという異常な事態です。しかし、古典ギリシャ語では、これがアリなのです。
〓ただし、この手の同綴語 (どうていご) のペアでは、上の例でもわかるように、受動態の意味を示すためにアクセントを前方に移動するのが普通です。
〓ところが、
Ναυσι-κάᾱ [ ナウスィ ' カアー ]
が、この例に当てはまるかどうか、どうも判定しづらいんですね。
〓 ξιφοκτόνος 「クスィポク ' トノス」 “剣で殺す”/ ξιφόκτονος 「クスィ ' ポクトノス」 “剣で殺された” のような形容詞には、先に書いたとおり、女性形がないので、-η (-ᾱ ) が接尾することがありません。ですから、
ξιφόκτον- + -η (-ᾱ)
のような実例が、とりあえず、見つからないわけです。
〓古典ギリシャ語は、基本的に、アクセントは語末から3拍目までに落ち、それより前に落ちることはありません。なので、当然、
*ξιφοκτόνη ksiphoktonē [ クスィぽク ' トネー ]
とならざるをえませんが、そうすると、「剣で人を殺すような(女)」 なのか 「剣で殺された(女)」 なのか、意味が不明になってしまいます。ここんところ、ややこしいですけれど、わかったでしょうか。
〓しかし、以上のことから、「ナウシカアー」 の合理的な意味を、次のように解釈することができます。
――――――――――――――――――――――――――――――
ναυσι- nausi- ← ναῦς naus [ ' ナウス ] 「船」 の複数与格。「船によって」
+
κα(ϝ)- kaw- ← καίω kaiō [ カ ' イオー ] <受動態で> 「恋心を燃やす」
+
-ᾱ -ā [ ~アー ] 動詞から 「行為をあらわす名詞」 をつくる接尾辞
↓
Ναυσικά(ϝ)ᾱ Nausiká(w)ā [ ナウスィ ' カアー ]
「船によって恋心を搔き立てられること」
――――――――――――――――――――――――――――――
〓もちろん、「船」 は “恋がかなわぬまま船で去って行ったオデュッセウス” の象徴でしょう。
「船を見るたびに、かなわなかった恋を思い出す乙女」
の姿が目に浮かびませんか。
〓さあて、この説、お気に召すでしょうか。