昭和の時代を生きた多くの男の子にとって間違いなくヒーローだったアントニオ猪木さん。私もアフリカやアメリカで育ちながら、漫画やVTRに録画してもらった試合を通じてファンになっていました。アメリカ人の友達とプロレス談義をする時は、アメリカのレスラーでさえ怖くて闘わないモハメド・アリと猪木さんが引き分けたことを話して自慢していました。

私が議院運営委員会の理事だった時、猪木さんが本会議場に入ろうとした際にシンボルの赤いマフラーを外さないと入場させないという問題が発生しました。私は理事会の中でただ一人、「松島法務大臣(当時)や他の女性議員がストールやショールをして入場しているのに、猪木さんが入場拒否されるのはおかしい」と、猪木さんのマフラー着用での入場許可を求めて反論しました。
私以外の全員が「ストールやショールは良いが、襟巻きはダメ。猪木さんが着用しているのは襟巻きと見なす」というい意味不明な決議をして結局不可となってしまいました。
その時は猪木さんにお会いせず、ご本人の意思は一度だけ人を介してお聞きすることしかしませんでした。
(それまでも国会でお見かけする事はありましたが、直接お話はした事はありませんでした)

初めてお会いしたのはそれから約2ヶ月後。
2015年1月の「日本を元気にする会」結党にあたって、新しい自由と民主主義を標榜する政党という目的に賛同して結党メンバーになって頂けたのです。そのお陰で国会議員が5名以上となり、たかが一期目の新人議員だった私が国政政党を立ち上げることができました。「若い元気な人たちにもっと頑張ってもらいたい」といつも仰っていましたが、当時は常にその言葉通りの動きを国会内でして頂き、本当に感謝しております。

何度も会議や食事会を通して、猪木さんのブラジルでの生活、事業での成功と失敗、北朝鮮、イラク、そしてパラオでのお話し等をお聞きし、プロレス引退後も様々な事にチャレンジされてきたことに感銘を受けました。

俺は身体のあちこちに爆弾を抱えてると当時仰っていましたが、晩年は全身性アミロイドーシスという難病に罹ってしまいました。それでも最期まで前向きに、元気に闘い続けた姿には尊敬の念が尽きません。

まさしく波瀾万丈の人生でしたね。
本当にお疲れ様でした。
今は安らかにお眠り下さい。

私が海外にいながらも子どもの頃から納豆が大好きになれたのも。それを気持ち悪いと友人たちに言われても堂々とできたのも。
猪木さんのお陰なんです。
ありがとうございました。