初期中世アイルランドの修道院教会制度・序

長いな・・・。この間読んだ論文に上手にまとめてあったので、更にそれをまとめて書いてみる。


その前に。「修道院教会」という語を、今回は使用する。「修道院/教会」、という書き方もしてみたが、monastic-churchという用語の直訳でもいいではないか、と思ったので。間違ってもらいたくないのは、この時期のアイルランドにおける修道院は、モンテカッシーノ修道院を創設し、いわゆる俗世界から離れた山奥で、祈り、働き、服従する、という修道院規律を確立したヌルシアのベネディクトゥス修道院とはまったく違うものである、ということに注意して欲しいことである。アイルランド修道院は、少なくとも共住修道院は、俗世界から切り離されてはいない。*1アイルランドにはローマ世界に多々ある都市(urbus)が無いわけであるから、修道院が創設されるのは、小さな町(村か)が散らばる世界の中であって、敢えて選んで田舎に創設されるわけではない。なおかつ、修道院の周り人々が集まることによって、帰ってそこを中心とした一種の町が形成されることも少なくなかった。これを、ローマの都市のパラレルとして捉える研究家もいるほどだ。*2
また、この修道院は、教会としての機能も果たす。すなわち、世俗での司牧活動である。この司牧活動の範囲については、議論がある。これについてはとりあえず現在の話の視点とは離れるので、ここでは割愛する。*3司牧活動を行うのは、司教や修道士達が主である。*4これは私の単なる憶測であるが、この当時の司教はどちらかというとグレゴリウス改革以降で言えば司祭や助祭に当たると思われる人も含まれていたであろう。もちろん、司教はこの時代のアイルランドでも身分としては行為であるが、ポイントは、どこの修道院教会の司教であるか、ということである。一説によればアイルランドには150人近くの司教がいた、*5ということであり、これらがすべて中世中期以降、現在まで続く「司教」とは明らかに性格の違うものであることは、明白である。
ともかくも、このようにしてアイルランド修道院は、いわゆる「修道院」として理解されるものとは違う働きがあり、それでも一次史料においては「修道院」として登場することから、苦しい訳ではあるが「修道院教会」という形にするのが最も適当と、現在の時点では考えている。


と、ここまで書いてきたが、前提条件だけで長すぎてしまったので、本題についてはまた次回、ということにする。


というか上記の説明で理解してもらえるのかどうかも自信ないなぁ。

*1:独住の隠修士も存在する。彼らは実際に俗社会とは接触することをしないが、修道士に教育を授けることも、また、その「聖性」を耳にして周りに多くの人が集まることによって、最終的には修道院となってしまう場合もある。このあたりが、この時期のアイルランド修道制が、東方の修道院と比較される所以であると思う。

*2:これについては、私自身は比較的否定的に捉えている。多くの雑多の人々の集住地としての形としては、都市的と言えるかもしれないが、ローマ世界におけるような「都市」と「農村」という対立)構造が見えないからだ。

*3:この話をするためには初期中世アイルランドにおけるparishとは、司教とは何か、の説明をする必要があり、それでまた話が逸れてしまうので。

*4:修道士の司牧活動については、若干ここでも書いた。http://d.hatena.ne.jp/kimuco/20060602

*5:この人数の算出方法は、アイルランドにおける最小政治単位tuathの数に比する、という説から来ているが、tuathと司教の関係については、注4と絡む話であり、同じ理由で割愛する。