兆民先生

第一章 緒言

「寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、音容明日尋何処、半是成煙半是灰」。想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて荼毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に湛へ、去らんと欲して去らず、悄然車に信せて還る。這一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。嗚呼逝く者は如斯き歟、匆々茲に五閲月、落木蕭々の景は変じて緑陰杜鵑の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。

但だ予や年初めて十八、贄を先生の門に執る。今に迨で十余年、其教養撫育の恩深く心肝に銘ず。而して未だ万一の報ずる有らず、早く死別の悲みに遭ふ、遺憾何ぞ限らん。平生事に触れ物に接して、毎に憶ふて先生の生前に至れば、其容其音、夢寐の間に髣髴として、今猶ほ昨日の如きを如何せんや。

況んや夫の商才を持し利器を抱て、而も遇ふ所ある能はず、半世轗軻伶俜の裡に老い、圧代の経綸を将て、其五尺躯と共に、一笑空しく灰塵に委して悔ゐざらしむる者、果して誰の咎ぞ哉。嗚呼這箇人間の欠陥、真に丈夫児千古の恨みを牽くに足る。孔夫子曰へるあり、「従于彼曠野、我道非耶」と唯だ此一長嘆、実に彼が万斛の血涙を蔵して、凝り得て出来する者に非ずや、子豈に特に師弟の誼あるが為めにのみ泣かん哉。

而して先生今や即ち亡し。此夕独り先生病中の小照に対して坐する者多時、涙覚へず数行下る。既にして思ふ徒らに涕泣する、是れ児女の為のみ、先生我れに誨ゆるに文章を以てす、夫の意気を導達する、其れ惟だ是れ乎、即ち禿筆を援て終宵寝ねず。

描く所何物ぞ。伝記乎、伝記に非ず、評論乎、評論に非ず、弔辞乎、弔辞に非ず、惟だ予が曾て見たる所の先生のみ。予が今見つゝある所の先生のみ。予が無限の悲みのみ。予が無窮の恨みのみ。之を描きて豈に能く描き尽すと曰はんや。即ち児女の泣に代へて聊か追慕の情を遣るのみ。思ふに天下有心の人あつて、能く個中の消息を解せらるるを得ん哉。

第二章 少壮時代

中江兆民先生は、弘化四年高知城下新町に生る。幼名は竹馬。長じて篤介と改む。兆民は号。別に青陵、秋水、南海仙漁、木強生等の号あり。考は卓介、妣は柳子。一弟あり、虎馬と云ふ、不幸短命にして逝けり。

先生年十三にして、卓介君卒す。家甚だ貧、而も母堂貞烈にして気胆あり、紡織自ら給し、其二児を訓誨する極めて厳、人皆な其賢を称せりと云ふ。予亦後年先生の家に在りて、親しく母堂の薫陶を受くるを得て、其真に先生の母たるに恥ぢざるの人なることを知れりき。

先生幼にして穎悟、夙に経史に通じ、詩文を善くせる者の如し。而して其性極めて温順謹厚の人なりしは、頗る奇なるに似たり。母堂屡屡予等に語つて曰く、篤介少時、温順謹厚にして女児の如く、深く読書を好みて郷党の賞賛する所となりき。而して今や即ち酒を被つて放縦至らざる然し。性情の変化する、何ぞ如此く甚しきや、此一事余の痛心に堪ヘざる所也、卿等年少慎で彼れに倣ふ勿れと。然れども先生の母堂に事へて至孝なる、其生涯を通じて渝らず、一事の命ぜらるる毎に、唯々として敢て或は違はざりき。

先生十七八歳始めて洋学に志し、萩原三圭先生、細川潤次郎先生に就て和蘭の書を学び、慶応元年十九歳にして、高知藩留学生となり、長崎に游び、平井義十郎先生に就て、始めて仏蘭西手を脩めたり。

当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本龍馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生曾て坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、平生人に屈せざるの予も、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、「中江のニイさん煙艸を買ふて来てオーセ、」などと命ぜらるれば、快然として使ひせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。

奇なる哉、坂本龍馬君を崇拝したる当時の一少年は、他日実に第二の坂本君たらんとしたりき。坂本君が薩長二藩の連鎖となつて、幕府顛覆の気運を促進し得たるが如く、自由改進の二党を打て一丸となし、以て藩閥を剿滅するは、是れ先生が畢生の事業とする所なりき。而して坂木君は成功せり、先生は失敗せり、成敗の懸る所、天耶、将た人耶。

居ること二歳、先生学大に進む、即ち去りて江戸に游ぶの意あり。当時長崎より江戸に来往する外国飛御船の船賃実に二十五両を要す。即ち同藩の先輩岩崎弥太郎君に向つて志を言ふ。岩崎君依違して許さず、曰く少らく待てと。其迫ること屡々なるに及んで、断然之を排して曰く、二十五両は巨額也、一書生の為に投ず可けんやと。先生亦怫然として曰く、如此くんば決して再び請はず、然れども僕の一身果して二十五両を値ひせざるや否や、之を他日に見よと。袂を払ふて去れり。蓋し当時土佐藩留学生は岩崎君監督の下に在りし也。

時恰も故後藤象二郎君の、藩命を以て来り、汽船を購入するに会す。先生即ち往て謁し、一絶を賦して献ず。其前二句は今之を忘る、転結は即ち云ふ、「此身合称諸生否、終歳不登花月楼」。後藤君笑つて二十五両を出して与ふ、先生大に喜び、直ちに外国船に搭じて江戸に出づ。意気奮揚想ふ可き也。此詩先生自ら書するもの、伊藤大八君現に之を蔵せり。

故村上英俊先生は、日本に於ける仏蘭西学の泰斗と称せらる。当時塾を深川真田邸内に開く。先生即ち往て贄を執れり。然れども先生学術既に儕輩に抜き、眼中人なく、気を負ふて放縦覊す可らず。屡々深川の娼楼、所謂仮宅に留連し、遂に村上先生の破門する所となれり。村上先生の晩年病で落魄するや、先生旧時の師恩を思ひ、慰問怠らざりしと云ふ。

先生村上塾を去て、横浜天主堂の僧に従て学び、神戸大坂開港の時、仏国領事に従ふて大坂に游ぶ。幾くもなく伏水の役あり、王政維新となるや、箕作麟祥先生江戸に出で、裏神保町に私塾を開くに会す。先生即ち又江戸に来り、箕作先生の門弟となる。其箕作塾に在るや、一時大学南校の助教たりしこと有り。後ち明治二年(?)福地源一郎先生湯島に日新社を設くるや、先生其塾頭となれり。

先生後ち語つて曰く、日新社の設くる、諸生来り学ぶ者多かりき。而も未だ一年ならざるに、福地先生は屡々吉原に遊んで帰らざるが故に、英学の生徒漸く散じ、唯だ予が率ゐる所の仏学の生徒を余せるのみなりき、彼は到底教育家にあらざりきと。而して先生も亦当時窃かに近傍の稽古所にて、杵屋の三絃を学び居たりし也。

先生久しく外遊の志を抱き、故大久保利通公に謁して請ふ所あらんとす。閽人先生が蓬頭垢衣の寒措大なるを見て、拒んで容れず。先生乃ち日々衙門の前に遊びて、公の馬丁と親狎し、相図つて其退庁に乗じ、車後に附攣して往く。公車を下るや、急に進んで刺を通じ、坐に延かるるを得たり。先生乃ち政府の海外留学を命ずる、之を官立学校の生徒に限るの非なるを論じ、自ら其学術優等にして、内国に在て、就くべきの師なく読むべきの書なきを説きて、其選抜を乞ひ、且つ曰く、同じく是れ国民にして、同じく是れ国家の為め也、何ぞ其出身の官と私とを問はんやと。公莞爾として曰く、足下土佐人也、何ぞ之を土佐出身の諸先輩に乞はざる。先生曰く、同郷の夤縁情実を利するは、予の潔しとせざる所也、是れ将に来つて閣下に求むる所以也と。公曰く、善し、近日後藤、板垣諸君に諮りて決す可しと。後藤、板垣二君亦為めに斡旋する所あり、幾くもなく司法省出仕に任じ、仏蘭西留学を命ぜらる。時に明治四年、先生歳二十五。

先生が仏国留学中の事、親しく其詳細を叩くに遑あらざりしは、今に於て予の深く遺憾とする所也。但だ予は、先生が、先づ小学校に入れるを聞けり。而して児童の喧騒に堪へずして、幾くもなくして去り、里昂の某状師に就て、学べるを聞けり。先生が司法省の派遣する所たりしに拘らず、専ら哲学、史学、文学を研鑽したることを聞けり。孟子、文章軌範、外史の諸書を仏訳したることを聞けり。其渉猟せる史籍の該博なりしことを聞けり。而して其帰朝や、当時我政府が一切の留学生を召還するの議ありて、先生も亦其中に在り、而して仏国の教師、先生の才を惜みて、資を給して止まらしめんと云ふや、先生意頗る動けるも、而も母堂の老いて門に倚るを想ふて、他年風樹の嘆あらん事を慮り、竟に帰途に就けるものなるを聞けり。予の知る所如此き耳。

然れども思へ、当時仏国の状勢たる、新に那勃翁三世敗衂の余を承け、内は朝野の党争鼎沸の如く、外は保守専制の反動澎湃として来る。而して彼のチエール、ガムベッタの諸英雄、毅然中流の砥柱を以て任じ、民主共和の大義の為めに、一代の智勇弁力を揮ふて、激闘するの状を見る者、誰か血湧き肉躍らざることを得んや。先生の深く此の間に感得する所ありしや知る可き也。

先生が仏国に於ける交遊は、西国寺公望侯、故光妙寺三郎、故今村和郎、福田乾一、飯塚納の諸君なりしと云ふ。現に存するの諸君に就て当時の事を敲かば、極めて興趣あり、且つ有益なるべきを信ずる也。

先生、明治七年二十八歳にして帰朝し、元老院書記官となる。大井憲太郎、嶋田三郎、司馬盈之の諸君と倶なりき。而して元老院幹事故陸奥宗光君と善からずして罷め、次で外国語学校長となり、又幾くならずして罷む。先是先生自ら仏学塾を番町に起し、政治、法律、歴史、哲学の書を講じ、四方の子弟来り学ぶ者、前後二千余人に及ぶ。

然れども先生は、竟に尋句摘草の儒生に甘んずる能はざりき。先生が少時より漢学の為めに養はれたる治国平天下の志業は、其勃々たる野心を駆れり。其洋学の為めに養はれたる自由平等の理想は其炎々たる熱血を煽れり。薩長藩閥が専制抑圧の暴威を逞しくするの時代に在て、先生は実に一個革命の鼓吹者たらざる能はざりき。

第三章 革命の鼓吹者

嗚呼巴里城中の平民、一たび竿を揚げて叫ぶや、欧洲列国の王侯宰相為めに震惶せるは何ぞや。他なし、民権は至理なれば也、自由平等は大義なれば也。憐れむ可し、東洋の小帝国、曾て此至理の彩華を現ずるなく、曾て此大義の甘雨に浴するなし。齁々然として専制の頑夢未だ覚めず、蠢々乎として猶ほ蛮野の城中に在り。白居易の詩に云ふ、「鯨呑蛟闘波流血、澗底小魚楽不知」と明治の初年泰西文明の新空気を呼吸して帰る者、豈に此感なきを得んや。

先生の仏国に在るや、深く民主共和の主義を崇奉し、階級を忌むこと蛇蝎の如く、貴族を悪むこと仇讐の如く、誓つて之を苅除して以て斯民の権利を保全せんと期せるや論なし。且つ謂らく、凡そ民権は他人の為めに賜与せらるべき者に非ず、自ら進んで之を恢復すべきのみ。彼の王侯貴族の恩賜に出る者は、亦其剥奪せらるる有るを知らざる可らず。古今東西、一たび鮮血を濺がずして、能く真個の民権を確保し得たる者ある乎。吾人は宣く自己の力を揮て、専制政府を顛覆し、正義自由なる制度を建設すべきのみと。

如此にして、先生は革命思想の鼓吹者となれり、「政理叢談」は発行せられたり、ルーソーの「民約」は翻訳せられたり、仏学塾は民権論の源泉となれり、一種政治的倶楽部となれり、而して偵吏物色の焼点となれり。次で西国寺侯の東洋自由新聞起り、自由党起り、板垣君の自由新聞起るや、先生皆な之に与かり、熾んに自由平等の説を唱へて専擅制度を掊撃したりき。

而して先生は、独り革命思想の鼓吹者たるのみならず、更に革命の策士、断行者たらんとし、或は九州の地に漫遊して、交を志士に結び或は東洋学館を起して支那に為すあらんとし、運動怠らざりしものの如し。而して屡々困頓し、蹉跎し、満腔の不平遣るに所なく、竟に酒を被り世を罵つて、放縦度なきに至れり。

先生が其著三酔人経綸問答中に記する所の一節は、蓋し夫子自ら描き得て其真に逼る者。曰く、

南海先生酷だ酒を嗜み、又酷だ政事を論ずることを好む、而して其酒を飲むや、僅に一二小瓶を釂す時は、醺然として酔ひ意気瓢揺として大虚に游飛するが如く目怡び耳娯み、絶て世界中憂苦なる者有るを知らず、更に飲むこと二三瓶なれば、心神頓に激昂し、思想頻に坌湧し、身は一斗室の中に在るも、眼は全世界を通観し、瞬息の間を以て、千歳の前に溯り、千歳の後に誇り、世界の航路を指示し、社会の方針を講授して、自ら思ふ我は是れ人類処世の指南車なり、世の政事的の近眼者が、妄に羅針盤を執り其の船を導きて、或は礁に触れしめ、或は沙に膠せしめ、自ら禍し人に禍すること、実に憫れむ可きの至なりと、然れども先生身は斯世界に在るも、心は常に藐姑射の山に登り、無何有の郷に遊ぶが故に、其説く所の地誌、其述る所の歴史は、斯社会の地誌歴史と唯其名称を同くするのみにして、事実は往々齟齬することあり、但先生の地誌にも気候寒冷の邦有り、温煖の邦有り、強大の国有り、弱小の国有り、文明の俗有り、野蛮の俗あり、其歴史にも治有り、乱有り、盛有り、衰有りて、極て斯世界の地誌歴史に切当することも間々之れ有り、更に飲むこと二三瓶なれば、耳熟し、目眩らみ、腕奮ひ、趾揚がり、発越飛騰して、其末や昏倒して前後を知らず、既にして二三時間睡眠し、酒醒め夢回へる時は、凡そ酔裡に言ひし事、又は為せし事は、一掃して痕迹を留ることなく、俗に所謂狐憑の落ちたるに似たり。

先生酔態実に如此く、世人見て以て一個の酔漢となせり。

然れども此酔漢や、猶は一面に於て、常に革命の鼓吹者たり、革命の策士たりき。而して当時其劃する所の隠謀秘策の如何は、予一々之を知る能はず、否な知れども語る能はざるを奈何せんや。唯だ先生が、或は某々有力者に遊説し、或は某々先輩に献策して、多く用ゐられず、欝々利器を嘆ぜしは予の明言し得る所也。

先生が平生如何に革命家たる資質を有せしかは、左の一話を以て知るべし。先生仏国より帰りて幾くもなく、著す所の策論一篇を袖にし、故勝海舟翁に依り、嶋津久光公に謁せんことを求む。海舟翁即ち海江田信義君を介して、冊子を公に献ぜしむ。後数日公召す、先生拝伏して曰く、嚮日献ずる所の鄙著清覧を賜へりや否や。公曰く、一閲を経たり。先生曰く、鄙見幸に採択せらるるを得ば幸甚也。公曰く、足下の論甚だ佳し、只だ之を実行するの難き耳と。先生乃ち進で曰く、何の難きことか之れ有らん、公宜しく西郷を召して上京せしめ、近衛の軍を奪ふて直ちに太政官を囲ましめよ、事一挙に成らん、今や陸軍中乱を思ふ者多し、西郷にして来る、響の応ずるが如くならんと。公曰く、予召すと雖も隆盛命に応ぜざるを奈何。先生曰く、勝安房を遣して以て説かしめよ、西郷必ず諾せんと。公沈思之を久して曰く、更に熟慮すべしと。先生乃ち辞し還れりと云ふ。先生の過激の策を好む、概ね此類也。故に他年皆な先生を忌憚し、然らざれば則ち、徒らに奇矯の言を為すとして排せられたりき。

先生壮時より海舟翁の知を得て、深く其人物に推服せり。常に予に語つて曰く、勝先生は当代の英雄也と。後年、大隈君の条約改正の談判に関し物論沸騰するや、後藤君窃かに謂らく、勝伯は宮中の信任厚し、或は御諮問の事なきを保せずと、即ち先生をして予じめ往て説く所あらしむ。翁、先生の面を一見するや否や、大笑して曰く「又条約の事で老人をイヂメに来たのだナ」と。先生深く其慧眼に服せり。

先生又海舟翁の談に依て、西郷南洲翁の風采を想望し、欽仰措かず、深く其時を同じくせざるを恨みとせり。

先生曾て吟じて曰く、「圯上受書知既久、沢中誰是斬蛇人」と。先生の志を当世に抱くや窃かに子房を以て自況せり。曰く諸葛亮は天下古今第一品の人物、我企及すべき所に非ず。若し夫れ張良は、我之に任ずるを得ん、但だ我が為めに漢高たる者なきを恨むのみ。若し西郷南洲翁をして在らしめば、想ふに我をして其材を伸ぶるを得せしめしならん、而して今や則ち亡しと。語此に到れば毎に感慨に堪へざる者の如くなりき。

嗚呼士の不遇、千古同歎。彼大沢斬蛇の英雄なく、自由党解体し、自由新聞廃刊し、仏学塾亦次で潰散し、明治の張良は、空しく陋巷に窮居し、多少の滄海公と共に、酒を飲で日を消するのみ。

然れども先生が多年撒布せる革命の種子は、決して萌芽を発せずして已まざりき。彼の明治十四年自由党創立の前後より、民権自由の思想は燎原の火の如く、政府は百方之が鎮圧に力め、朝野の紛争軋轢其極に達して、遂に明治十五年、河野広中等の福嶋事件となり、同年赤井景韶等の高田事件となり、同十七年富松正安等の加波山事件となり、同年村松愛蔵等の名古屋事件となり、竟に十八年十月大井憲大郎等の大阪事件あるに至る。其他飯田事件の如き、静岡事件の如き、高崎事件の如き、多くの暴発を見るに至れるは、豈に先生の手中に運らすの一管、与かつて大に力ありしに非ざるを知らんや。

而して風雲は漸く急也、明治二十年井上馨の条約改正失敗するや、全国の志士、名を三大事件の建白に托し、爆弾を抱て輦轂の下に集る者数百人、政府狼狽して、急に保安条例を発布し、疑似の者を捕へて東京三里以外に放つ。而して先生亦逐客となる、即ち母堂を奉じて函山の嶮を踰えて西す。時に十二月二十五日、朔風凛冽の夕なりき。先生歳四十一。

翌明治廿一年、先生、栗原亮一、寺田寛、故宮崎富要の諸君と東雲新聞を大阪に発行し、自ら之に主筆たり。当時東京を逐はるるの政客壮士尽く此地に集り、政治上の言論、集会、出版皆な此地に於てし、関西日報には末広重恭、森本駿、大阪毎日には柴四郎、竹内正志、大阪公論には織田純一、西村時彦、経世評前には池辺吉太郎の諸君、皆な侃諤の論を為し、競ふて政府を攻撃し、一時其盛を極む。而して先生神韻の文、天馬の空を行くが如く、名声忽ち関西に籍甚たり。予が先生の門に入れるは実に此時に在り。

先生当時猶ほ甚だ貧なりき、其新聞社より得る所、僅かに五十余金のみ。而して其曾根崎の寓居は、僅かに四室にして、先生夫妻、令嬢、下婢の四人と、及び予等書生多きは四五人少きも二三人常に玄関に群居せり。加之日夜訪客堂に満ち、政客来り、商人来り、壮士来り、書生来り、飲む者、論ずる者、文を求むる者、銭を乞ふ者、擾々として絶えざりき。母堂は令弟虎馬君の遺孤を携へて、近隣に別居せりき。

然れども此時や、先生の意気と文章と正に沖天の勢ありき。先生日に椽大の筆を揮ふて時事を痛論せり、日に酣酔淋漓として卓落豪放の態を極めたり。其長髪鬖々として、頭に真紅の土耳其帽を戴き、身に東雲新聞の印半纏を着て出入せしも此時に在りき。壮士演劇を創して其顧問たりしも此時に在りき。而して隙駒匆々早くも憲法発布の時とはなれり。

明治二十二年春、憲法発布せらるる、全国の民歓呼沸くが如し。先生嘆じて曰く、吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物乎、玉耶将た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ如此くなるやと。憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍唯だ苦笑する耳。

先生其著、三酔人経綸問答に於て諷して曰く、世の所謂民権なる者は自ら二種有り、英仏の民権は恢復的の民権なり、下より進みて之を取りし者なり、世又一種恩賜的の民権と称す可き者有り、上より恵みて之を与ふる者なり、恢復的の民権は、下より進取するが故に、其分量の多寡は我の随意に定むる所なり、恩賜的の民権は、上より恵与するが故に、其分量の多寡は我の得て定むる所に非ざるなりと。然り先生は決して恩賜的民権を以て満足する者にあらざりし也。況んや其分量の極めて寡少なる者をや。即ち慨然として曰く、咄々朝三暮四の計、黔首を愚にするの甚しきや。我党宜しく恩賜的民権を変じて、進取的民権と成さざる可らず。

嚮に保安条例に拘して退去の令を受くる者、憲法発布に際して皆な解除せられ、政治運動の中心又東京に移れり。時に後藤象二郎君大同団結を唱道して政界に横行す、疾風枯葉を払ふの概あり。而して其雑誌「政論」を日刊となすや、先生を聘して主筆たらしむ。先生乃ち家を挙げて東京に還る。予も亦従へり。

幾くもなく後藤君其友を売て入閣し、大同団結解体し、在野政党四分五裂の状あり。先生同志と共に自由党を再興し、自由新聞、立憲自由新聞等に主筆として専ら民党の糾合を図り縦横の策最も力む。而して議会開設に及んで、大阪より進まれて議員となる。

嗚呼議会開けて十年、其間議員候補たる者幾万人ぞ、而も一厘一銭の金を費すことなく、一挙手一役足の運動なくして、強て選挙民の為めに推されて出る者、先生の如きは絶て見ざる所也。徳高きに非ずんば、曷んぞ能く如此きを得んや。

第四章 議員と商人

憲法布く、議会設く、人は参政の権を得たるを慶せり、世は新天地に入れるを賀せり。然れども此憲法や、先生の眼中に在て果して何物ぞや、此議会や先生の眼中に在て果して何物ぞや。

先生は所詮主義の人也、理想の人也。此主義果して行はれたる乎、此理想果して現ぜられたる乎、民権果して恢復せられたる乎、自由平等果して確保せられたる乎。思ふて此に至れば、猶ほ災風の日、身に葛衣の軽きを著けて、頭に鉄帽の重きを戴くの感なきを得んや。乃ち謂らく、議会劈頭第一の事業は、恩賜的民権を変じて、進取的民権と為すに在らざる可らず、専制政府の顛覆に在らざる可らずと。

見よ、吾人は憲法に於て何の与へらるる所ぞ、議会は何の権能か有る。内閣は議会に対して何の責任なきに非ずや、上院は下院と同一の権能を有するに非ずや、内閣は常に政党以外に超然たるに非ずや、条約の訂結は議会の与り知らざる所に非ずや、宣戦媾和は民人の与り知らざる所に非ずや、予算協賛の権は上院の為に其半ばを奪はるるに非ずや。若し如此くんば我議会は独り民権伸張の具となすに足らざるのふならず、他日徒らに政府の奴隷たるに了らんのみ、内閣の爪牙たるに了らんのみ、堕落腐敗に了らんのみ。吾人は直に憲法の改正を請はざる可らず。

然り、吾人民人の代表者は、如此きの憲法の下に在ては、何事をも議し能はざるに非ずや、国家の利益と民人の幸福を増進すること能はざるに非ずや。衆議院議員は宜しく開会劈頭に於て、此意を具して、奏請する所ある可きのみと。是れ実に第一期議会前に於ける先生の大抱負なりき。

如此くにして、先生は其十年一剣を磨して計図せる所を以て、直ちに之を平和の中に遂行せんとしたりし也。彼は到底革命の鼓吹者たらざる能はざりき。

先生は乃ち此議を以て在野政友に切言して曰く、若し今にして決せずんば、他日噬臍の悔あらん、宜しく其基礎未だ固からざるに乗じて、之を撃破すべき耳、此膝一たび屈せば又伸ぶ可らず、機失ふこと勿れと。

然れども当時又一人の先生に聴く者なかりき。皆な曰く、何ぞ兆民の矯激俗を驚すの甚しきや。甚しきは即ち不臣不忠を以て先生を排する者あり、先生其為すなきを見て、退いて、浩歎するのみ。

而して先生猶ほ意を政界に絶たず、日々握飯を竹皮に包みて、議院に出づ。而して予算八百万円削減の問題に関し政府在野党の衝突するや、以為らく藩閥を殪す此の一挙に在りと。熱心各派の間を往来し、周旋大に力む。当時民党、吏党なる熟語は、先生が立憲自由新聞紙上に於て創作せし所也。

回顧すれば、民吏両党の轡を駢べ、旗鼓堂々として相当るや、恰も東西両軍の関ケ原に闘ふが如く、真に一代の壮観を呈したりき。而して民党の猪突驀進して直ちに藩閥の塁に肉薄するの時に方つて忽然として金吾秀秋は現出せり。自由党の所謂土佐派なるもの款を敵に通じて、六百万円削減の交譲成り、九仞の功一簣に欠きて、民党為めに潰走し、藩閥政府万歳を謳はんとは。

先生此時眦為めに裂く。直ちに「無血虫」なる一文を艸して之を立憲自由新聞に掲げ、大に反覆者を罵倒し、次で辞表届を議長中島信行君に呈したり、其文に曰く、「アルコール中毒の為め、評決の数に加はり兼ね候に付き、辞職仕候」と。議長懇ろに其在任を勧め、滞京の選挙人亦驚きて、馳せて其門を叩きて之を諌むるも、先生頑として聴かざりき。

先生議員を罷むる後、新井章吾君等と経綸雑誌を起し、次で民権新聞を発行し、一面熾んに政府及び吏党を攻撃し、一面自由、改進両派の聯合を主張し、以て全力を藩閥剿滅の事に致せり。先生曰く、維新の革命は実に薩長旧藩の聯合あつて、而して後始めて之を成すを得たり、今の自由、改進の両派は猶ほ当年の両藩の如し、真に第二維新の業を成さんと欲せば、両派直ちに聯合せざる可らずと。

蓋し自由改進の両党、甚だ其主義政見を異にするあらずと雖も、其歴史と感情との異なるが為めに、其反目揆離犬猿も啻ならざりき。而も第一期議会に歩調を斉しくしたる以来、双者の間寖々融和の傾きあり。先生即ち此機に乗じ、百万策を劃して、竟に大隈、板垣両君をして一堂に会見せしむるを得たり。

多年呉越の如くなりし両君が、一朝相会して其旧交を温め、手を携へて政治の改革に努力するを誓へるの一事は、忽ち天下の人心を新にして、政府為めに震撼し、而して大隈君為めに枢密顧問の官を罷められたり。次で民党大懇親会なる者開かれ、民党の意気大に昂る、皆な曰ふ、天下の事手に唾して成すべしと。実に明治二十四年十一月第二議会開会の前なりき。而して其結果や、即ち第二議会の解散となり、所謂二十五年の選挙干渉となれり。

此聯合や蓋し先生が、政治運動に於ける最初の成功にして、又最後の成功たらざる能はざりき、先生幾くもなくして、身を貨殖の業に投じたれば也。

先生、仏学塾解散の後、只だ新聞雑誌に衣食す。毎月受くる所、五十金百金、多きも二百金に過ぎず、而して其載筆する所、皆な政党の機関たるが故に、其資金甚だ乏しく、且つ極めて利殖に拙にして、朝に起りて夕に廃す。自由新聞や、立憲自由新聞や、民権新聞や、京都活眼新聞や、東雲新聞や、経綸雑誌や、比々皆な然らざるはなし。家益々貧にして逋債益々多し。廿五年、小樽の有志北門新報を創し、先生を聘して主筆たらんと乞ふ。先生乃ち北海道に行き、居ること少時、遂に政界と文壇とを退き、家を札幌に賃して紙店を開き、次で北海道山林組なる看板を掲げ、貨殖に汲々たるに至れり。

先生当時予に語つて曰く、今の政海に立つて鉄面厚顔の藩閥と闘ふ、如何に筆舌を爛して論議するも、其功果極めて遅々たり。況んや今の政党員、皆な貧困にして、加ふるに其運動の不生産的消費を以てす、其窮極する所は、餓死に非ざれば自殺ならん、否らずんば即ち節を枉げ説を売りて権家富豪に頤使せらるるの外なきに至らん。夫れ人尽く夷斉に非ず、能く節義の為めに餓死を忍ぶが如きは、是れ庸衆に向つて期待す可らざるの事也。彼の某々の如き、豈に節義の何物たるを知らざらんや、而も暮夜権門を叩て臭名を流せる者、其心寧ろ憐れむべき也。方今の世阿堵なくして能く何事を為し得んや。

文学の如き亦然り。日夕奔走に衣食する者、豈に不朽の文学を為し得んや。泰西の文人は世界を読者とす。僅に二両冊の傑作を出せば、忽ち数万部の需要あり、以て畢生糊口の資を得、悠々任意の文を作る。彼等皆な大抵恒産を有せざるなし。

支那の文人詩家、唯だ杜甫のみ真に困窮せり、彼七歌の如き、人をして酸鼻せしむ、然れども其他甚だ苦しめる者なし。彼の窮を愬ふること彼が如きの韓愈すらも、猶ほ妾を蓄ふるの余裕を有せしにあらずや、彼の饑を云ふ彼が如きの陶潜すらも、又帰来童僕の門に候して田園の耕耘すべきありしに非ずや。彼等金銭に駆られ、衣食を支へんが為めに文を作らず、故に能く雄篇大作を出せる也。今や我小島国の限りある読者に対して、其日暮しの生計を立つ、能く何事をか為し得んや。

丈夫生れて天下の権を取り、以て其志を行ふ、真に快心の事、然らずんば即ち退いて水を飲み書を著さんのみ。而して今や両つながら難し。嗚呼黄白なる哉と。

二十六年より、二十七八年に至る間、先生北海道より東京に、東京より大阪に、往復頻りにして、而して家益々貧に、衣服典し尽し、蔵書売り尽して、晏如たり。曾て笑つて曰く、大饑饉なる哉、朝暮唯だ豆腐の滓と野菜のみ、何ぞ惨なるや。汝等姑らく待て、予の陶朱翁たる近きに在り、予にして十余万金を得ば、新聞起すべし、政界に縦横すべし、汝を携へて欧米に遊ぶべし、而して大著作を為すべしと。

而して往生の一たび牙籌を取るや、酒を廃し、行を慎み、殆ど別人の如し。後ち死に至るまで曾て一杯を口にせざりき。

二十六年の夏なりと記す。先生関西より還る。京都停車場に一貴人あり、多数の従者病を扶けて車に上る、近づきて之を見れば、故陸奥宗光君也。先生曰く、陸奥さんに非ずや、陸奥君曰く、中江君かと。先生憮然として曰く、第一議会以後閣下を見ざる僅かに三年、何ぞ其衰へたるや、容貌殆ど現世の人に非ず、予は是れ閣下なるを思はざりきと。陸奥君曰く、足下は之に反して極めて肥満せるに非ずやと、深く其健康を羨むものの如し。先生、彼れの死期の遠からざるを見て同情の念に堪へず、懇ろに之を慰籍して談ずること少時、陸奥君先生の酒を禁ぜることを聞き賞賛して已まず、自家の病漸く重きを嘆じ、頻に摂養の忽かせにす可らざるを説けりと云ふ。誰か知らん陸奥君を弔せるの先生、又十年ならずして他の為めに弔せらるるの人とならんとは。

此時先生語を転じて曰く、閣下、光妙寺を如何せんとするか、乞ふ速かに図る所あれと。故光妙寺三郎君晩年極めて落魄せるが為め也。陸奥君曰く、彼れ甚だ政府部内の忌む所たるが故に、事頗る難し、而も早晩処するの途あるべし。先生曰く、彼は予の如く赤切符の生活に堪る能はざる也、乞ふ速に之を図れ。陸奥君曰く、足下は赤切符なりや。先生即ち下等切符を出して曰く、如此し、予は滊車、汽船両つながら中等以上の室に乗りしことなしと。両人相見て大笑す。陸奥君の従者亦一斉に微笑して先生を諦視せり。先生は生平常に赤切符の生活に甘んじたりし也、彼れ奇を衒ふに非ず実に貧なりしが故也。

而して先生の事業は、日清戦役の後会社熱勃興の時に方り、毛武鉄道の株券騰貴の為めに少しく利するありしのみ。其他河越鉄道と云ひ、常野鉄道と云ひ、京都パノラマと云ひ、遊廓設置と云ひ、中央清潔会社と云ひ、某々山林払下と云ひ、皆な損失に了らざるはなし、偶ま其事業の成立したる者ありしも、其収益は先生の手に入らざりき。其「一年有半」中に、贏利は則ち他人之を取り、損失は則ち余之に任じ、其末や裁判、弁護士、執達吏、公売等続々生起し来りて後ち已むと言へる者、信也。

後年黒岩涙香君、万朝報紙上に「一年有半」を評するや、先生之を読で予に寄するの書を作る。偶ま予の至るを見て半ばにして筆を投ぜり。其書に曰く、

黒岩氏の批評は、近来になく面白く相読み申候、推奨之処は敢て不当に論なきも、小生を操守ある理想家と看破し呉れたるは、茫々天下、唯涙香君一人、僕真に愉快を感じ申侯、抑も僕の東洋策にも理想有り、経済策にも理想有り、娼楼にも理想有り、営利業にも理想有り、即ち毛武鉄道の権利株が十余円したる節も、発起人丈けは売らずに仮株券となる迄、持つ可きものと主張して、遂に自身のみならず、発起人一同へ損をさせたる抔、世人は定めて愚を笑はん、僕は左なくては株式会社は立ち行くべきものに非ずと考へ、今に考へ居れり、迂濶に迄理想を守ること、是小生が自慢の処に御座侯、然に誰も此処を覰破し呉れず、夫れ奇才の、夫れ学者のと、予何の人に出る才あらん、唯自慢する所は理想の一点のみ。

然り、先生は遂に其理想を棄る能はざるが為めに敗れたりき。政治家として然り、文士として然り、実業者として殊に然り。而も紛々たる今の実業者中、「左なくては株式会社は立ち行くべきものに非ず」の一句を読で、愧死せざる者果して幾人か有る。

先生の曾て荷馬に娼楼を設けんとするや、予其先生の徳を累せんことを言ふ。先生即ち現下の社会に公娼の必要なる所以を論ずる、滔々数千言。且つ曰く、公娼既に必要たり、之を営む、何の不可かあらん。職業は一切平等也、何の貴賤か之有らん。予は既に商人たり、詐偽と盗賊を除くの外は、為さざるなけん。但だ彼の議員政治家の如きは、是れ公務也、一個営利の業に非ず。而も彼等が其職を利用して以て金銭を掴むが如きは、是れ直ちに詐偽盗賊のみ、是れ予の餓死すと雖も為さざる所也。予は今や議員政治家に非ずして、一個の商人也、商人の金儲けは、予の主義理想に累するなし、汝安んぜよと。

先生は真に商人たらんとする者なりき。詐偽と盗賊を除くの外は、為さざるなきを希ひたりき。然れども思へ、今の商人中、幾何か詐偽と盗賊たらざる者有る乎。今の経済社会に立つて、詐偽と盗賊を為さずして能く成功し得るの途ある乎。正実の商人を以て、投機師の社会に入るは、猶ほ馴羊を以て豺狼の群に投ずるが如し、宜なり、先生の連戦連敗せることや。

如此にして先生が実業家として十年の苦闘、贏す所は一の失敗のみ。宿昔青雲の志空しく蹉跎して、鬢上忽ち斑々の霜に驚く、首を挙げて前途を望む、転た日暮れ途遠きを嘆ぜずんばあらず、慨然として殆ど倒行逆施に甘んぜんとするの意あり。

此時に方つてや、民間の政党全く当年の気節なく、一に藩閥の駆使に供して官職利禄を求むるに汲々とし、腐敗日を逐て甚しく、第十議会、松隈内閣の買収政策を行ふに至りて、其醜を極めたり。次で伊藤内閣立つや、自由党又提携に托して其奴僕たらんとするの状あり。先生憤慨措く能はず、再び起て政界掃清の事に任ぜんとし、数名の同志を率ゐて、国民党を組織し、雑誌百零一を発行して、以て在野党聯合の急を説き、藩閥の討滅すべきを唱ふ。而も其金銭に乏しきが故に自由の運動を為すこと能はず、数月ならずして潰散せり。時に明治三十一年なりき。

爾来先生貧益々甚し。明治卅三年秋、毎夕新聞の乞に応じて、其主筆となり、僅に米塩を支ふ。次で国民同盟会成るや、進んで之に投じ、奔走頗る力む。

先生の国民同盟会に入れるは、其志実に伊藤博文の率ゆる所の政友会を打破して、我政界の一大革新を成すに在りき。予当時問ふて曰く、国民同盟会は蓋し露国を討伐するを目的となす者、所謂帝国主義の団体也。先生の之に与する、自由平等の大義に戻る所なき乎と。先生笑つて曰く、露国と戦はんと欲す、勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし、敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を剿滅し内政を革新することを得ん、亦可ならずやと。

後予は屡々同会の為す有るに足らざるを言ふも、先生敢て聴かざりき。蓋し先生久しく髀肉の生ずるに堪へず、直情一往又成敗を論ずるに遑なかりし也。

越て数月、先生別に営利の事に関し、某々の為めに誘はれて大阪に赴き、病を得て卒に起たず。

第五章 文士

先生の一たび椽大の筆を揮ふて風雲を叱咤するの処、殆ど匹夫にして百世の師となり一言にして天下の法となるの概有り、文士としての先生は、真に明治の当代の第一人なりき。夫れ先生の才や天才也、其文や神品也、固に庸衆勉強の力の希ふ可きに非ずと雖も、而も別に其学術の素養根底の深き有るに非ずんば、曷んぞ能く如此くなるを得んや。

先生の幼にして経史を読み詩文を善くせるは前に既に之を言へり。後ち仏蘭西の書を学ぶの間、常に漢学を修むるを休めず、作る所の漢詩数百首ありき。其箕作先生の塾に在るや、哲学の訳語を討査せんが為めに仏典を講ずるの意有り、而して其健康の堪へざらんことを虞れ、一日突如石黒忠悳翁を訪ふて診を乞ふ。翁一見して其蓬頭垢衣の状に驚き、共来意を聞きて深く之に感じ、大に奨励する所あり。先生喜び、麦酒三壜を贈り、診損料に代へて去れり。後数年ならずして中江篤介の名大に揚る、翁手を拍て曰く、之れ有る哉と。去年先生の堺より還るや、翁其病床を問ひ、談じて三十年前の事に及び、両人相看て哄笑す。当時伝へて一佳話となせり。而して此一事以て、如何に先生が夙に思ひを文辞に労せしかを知るに足るべき也。

然れども先生の文章大に進めるは、其欧洲より帰る後、故岡松甕谷先生の塾に学べるの時に在るが如し、先生一日街頭を散策し古本店に於て和漢対訳の一冊子を見る。其訳文縦横自在にして絶て硬渋の処なし。先生深く之を喜び、嘆じて曰く、老手如此の人ある耶と。著者の名を検すれば岡松先生也。乃ち仏学塾に在て子弟を教育するの余暇を以て、贅を岡松先生に執り、学ぶ者数年なりしと云ふ。

岡松先生「訳常山紀談」に題するの文あり、中に曰く、「自余入都、有諸生請受業者、必先授以記実法、従文簡先生遺教也、中江子篤見之喜曰、循子之法、雖東西言語不同、未有不可写以漢文者也、遂与二三子謀、取常山紀談、相伝訳之、余亦極力刪定、已成、彙為十巻、以便後進之士、相継及門者取則焉。」先生実に岡松先生の教に従ふて、叙事の文を重んじたりき。常に曰く、文を学ぶ者須らく先づ叙事を学ぶ可し、能く叙事に長ぜば、往くとして可ならざる無けんと。

「訳常山紀談」十巻、尨然たる大冊、実に当時先生及び同門諸君の刻苦勉強の迹を見るに足る者あり。後ち先生久しく之を公行するの意あり。曾て曰く、岡松先生は活刷を好まざりき、故に先師の遺志に従はんとせば、必ず木版に附せざる可らずと。而して其巨額の資を要するを以て貧にして果さず、常に以て憾とせり。去年先生死する前、其写本を筐底に取り、予を呼で曰く、是れ文学の至宝也、今汝に授く、我死後切に愛護して、之を見る猶ほ我を見るが如くせよと。此書現に予謹で之を保管す、他日幸ひに公行して以て先生の志に酬ゆるの機を得ば、予の願ひ足れり。

先生「一年有半」に於て、岡松先生の文を評して曰く「其材を取る極めて宏博にして、即ち三代秦漢より下明清に及び、旁ら稗官野史、方技の書に至る迄、時に応じ意に任せ、駆使して遺さず、而して其紙に著はるる所、所謂字々軒昂して、而かも且つ妥貼を失はず」と。此語直ちに移して以て夫子の文を評す可し。先生の学和漢洋を該ね、諸子百家窺はざるなく、手に任せて駆使するの所、人をして驚嘆せしむる者あり。

而して先生の文、独り其字々軒昂せるのみならず、瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる者、予は其多く仏典語録の順に得る所ありしを信ず。先生平生禅を好み、多く交を方外に結び、且つ博く仏典語録を渉猟し、頗る悟入する有るが如く、碧巌集の如きは、其最も愛読する所なりき。人若し先生の新聞雑誌等に掲げし文字を玩味せば、必ず予の言の虚ならざるを知らん。

先生の翰を運らすや飛ぶが如く、多く改竄する所なし。其新聞雑誌に掲ぐる者の如きは、一気呵成曾て一回の復誦するなく、筆を投じて直ちに植字工の手に附せり。然れども、是れ決して其文に忠実ならざるが為めに非ず、又其苦楽を経ざるが為にも非ずして、唯だ其筆の健なるが為めに然るのみ。故に咄嵯の作と雖も、曾て文字の妥貼を失せる無し。但だ訳書及び碑銘其他の金石文字に至りては、数回の刪正を経ること有り、理学鈎玄の文の如きは、頗る推敲を費せりと云ふ。

先生漢文に於て、深く自ら任ずる所あり。曰く、邦人の漢文、支那人をして之を読ましめば、恐らくは解する能はざる者多し。能く真正の漢文を作る者、岡松先生歿後幾人か有るやと。曾て自ら唐宋八大家文を取り、一々批点を附し評語を加ふ。曰く、予の批評や、山陽の謝選拾遺に優ること万々也と。此書今果して誰氏の許に在るやを知らず。而して先生作る所の漢文、僅かに竹井駒郎、宮城浩蔵、植本枝盛の諸君の墓碑に存するのみ。其他の文稿皆な散逸せるは、惜むに堪へたりと謂ふ可し。

予の始めて先生の大阪曾根崎の寓に寄食せるの時は、先生の洋書は其大半を売り、残す所甚だ多からざりしも、漢籍は猶ほ数百巻を蔵せり。先生文を艸するは大抵朝餐後一二時の間に於てし、昼間は運動、奔走、接客、飯酒に消し毎夜二時頃より夢醒めて読書し、暁に達するを例とせり。

先生の読書は渇するが如し。後年身を商界に投じて窮困し、尽く其蔵書を売尽すや、常に落寞に堪へざる者の如く、其自宅に在て近時の小説講談の類と雖も、苟も印刷物の目に触るる有れば、即ち欣然として読むを楽めり。而も其文を作るや、興来らざれば筆を下すこと少し。曰く、読書の禁じ難きは猶ほ喫烟の禁じ難きが如し、然れども金銭の為めに文を作る、之より痛苦なるは莫し、予は筆を援るよりも寧ろ鍬を手にするを好むと。

先生古今に於て最も史記を推す。曰く、史記の文、甚だ格法に拘々たらず、神気一往、其行く可き処に行き、止まる可き処に止まる、雄渾蒼勁、真に天下の至文也と。而して先生亦自ら之を以て期せるが如し。

先生予等に誨へて曰く、日本の文字は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可からず、且つ世間洋書を訳する者、適当の熟語なきに苦しみ、妄りに疎率の文字を製して紙上に相踵ぐ、拙悪見るに堪へざるのみならず、実に読で解するを得ざらしむ。是れ実は適当の熟語なきに非ずして、彼等の素養足らざるに坐するのみ、思はざる可けんやと。

又曰く、漢文の簡潔にして気力ある、其妙世界に冠絶す。泰西の文は丁寧反覆毫髪を遺さざらんとす。故に漢文に熟する者より之を見る、往々冗漫に失して厭気を生じ易し。ルーソーの「エミール」の妙を以てするも、猶ほ予をして之を訳せしめば、其紙数三分の二に滅ずるを得ん。但だ東西の文各々其長所を有す。彼ウォルテールの「シャルヽ十二世」の如きは、文気殆ど漢文を凌駕す、ユーゴーの諸作の如き、亦実に神品の文也。而も之が真趣味は、唯だ原文に就て始めて解するを得べくして、決して尋常訳述の能く写し得る所に非ざるや論なし。我れ曾て仏訳の「パラダイスロスト」を読みて深く其妙を感ぜるも、未だ其心に飽かざる者あり、謂らく若し原文に就て之を読まば其快幾何ぞやと。故を以て多く学術理義の書を訳せるも、曾て文学の書を訳せることなし。凡そ文学の書を訳する、原著者以上の筆力有るに非ずんば、徒らに其妙趣を戕残するに了らんのみと。

而も先生は決して漢文を以て満足する者に非ざりき。曰く、学士書を著す、宜しく読者を世界に求む可きのみ、区々小嶋国中の人民と議論を上下す、能く何の為す所ぞと、是を以て先生の仏蘭西に在るや、専心欧文を作ることを学び、其仏訳する所の孟子、外史、文章軌範の類尨然大冊を成せりと云ふ。乃ち予に謂て曰く、我仏蘭西の書を教ゆる子弟幾千人、而して名を成す者尠し。蓋し、仏蘭西学の我国に於ける需用の甚だ多からざるが為め也。英語は独り我国に於けるのみならず、広く世界に行はる。汝先づ英書を講じ、英文を作るを習へ、庶幾くば以て世界の人たるを得んと。

先生、日に予に課するに漢籍を以てし、別に師に就て英書を読ましめ、且つ多く文を作るを命ぜり。毎に曰く、昔者東坡極力孟子の文を学び、而して孟子以外に別に一家を為すに至つて、始めて不朽なるを得たり。文士の苦心は実に前人以外に新機軸を出すの処に存す。汝の文、予の文を学び、予の文に似たるの間は、遂に予以上に出る能はざるを知らざる可らずと、嗚呼何ぞ其懇篤なるや、而も予の魯鈍、学業今に於て遅々として成らず、何の日か能く先師の望みに副ふことを得ん。

先生初め政府の嘱に応じて訳する所政法の書甚多し、而も尽く公行するに至らず、今其訳書、著書の発售せる者、予の記する所に依れば、左の数種あり。

道徳大原論、維氏美学、理学沿革史は文部省の嘱に応じて訳せる者、ルーソー民約は仏学塾より発行せり。其文皆な極めて自在、恰も直ちに自家胸臆を将て披瀝するが如く、絶て斧鑿の痕を存するなきは人をして嘆服措かざらしむる者有り。

革命前仏関西二世記事。此書や先生の得意の筆を以て得意の事を述ぶ、蒼勁跌宕、直に史記の塁を摩せんと欲す。先生叙事の妙、実に此篇に就て看る可し。

三酔人経綸問答。旧集成社より発售す。先生自ら評して曰く、是れ一時遊戯の作、未だ甚だ稚気を脱せず、看るに足らずと。然れども予を以て之を見れば、其縦横に揮洒し去りて、多く意を経ざるの所、却つて先生の天才を発露し得て余有り。而して先生の人物、思想、本領を併せ得て、十二分に活躍せしむる。蓋し此書に如くは無し。若し夫れ寸鉄殺人の警句、冷罵入骨の妙語、紙上に相踵ぐ、殆ど人目を眩せしむ。

平民の目ざまし。自由党隆盛の時に方り、平易の文字を以て、自由民権を鼓吹する者、麹町磯部屋の出版に係る。眇たる小冊子なりと雖も、其感化する所の大なる、遙に他の諸書に勝れりき。凡そ先生の著訳中、一年有半、続一年有半を除き、其発売部数、此書尤も多かりしと云ふ。

選挙人の目ざまし。明治二十三年初めて総選挙を行ふの前、執筆する所にして、実に先生が健康時に於ける最後の著作也。代議制の本義と其利弊の在る所を説きて、主として候補者の言質を納れしむるの要を論ぜりと記億す。其極めて真面目の事を述ぶるに、極めて飄逸の文を以てす。全篇所謂奇趣の横生するを見る。此書金港堂より発售せり。若し再刊を得ば、現時の議員及び選挙民を啓発提醒するに於て、其功尠なからざる可し。

憂世慨言は大阪に於て、四民の目ざましは東京に於て、倶に某々書肆をして東雲新聞の随筆を編集せしめて酒資と為す者。近時別に警世放言と題する者、某書肆より出づ。此書亦当時の新聞紙より蒐輯せる者なりと云ふ。

理学鈎玄。近時続一年有半の附録として再刊せる者世人の熟睹せる所也。

先生の著訳は、其議論文章倶に当代に冠絶せしに拘らず、其発売部数は毎に甚だ多からざりき。而して一年有半の出るに及んで頓に洛陽の紙価を高からしめたり。徳富蘇峰君一年有半を評して曰く、吾人は明治の社会が、著者に対して、決して薄恩ならざるを信ずと。而も其読者社会を震動すること能く彼が如くなりし者、唯だ其絶筆てふ事其事の深く社会の好奇心を惹起し得たるに依て然るを思はば、予は未だ其薄恩ならざる所以を解する能はざる也。然れども其薄恩と薄恩ならざると、先生に於て何か有らん哉。

先生は固より是等の著書の称せられざるを分とせり。曰く、我が従来作る所、大抵古人の糟粕に過ぎずして、曾て独創有るなし、我れ深く之を恥づ。然れども人生限り有り、真個雄篇大作なる者、豈に多々あることを得んや。但だ古人以外に新機軸を出すもの、此に一あれば即ち不朽なるに足る。我れ之を他日に期せんと。

而して先生の所謂他日に期する者は、即ち其哲学の組織に在りき。而も貧乏は之を許さざりき、健康は之を許さざりき、時間は之を許さざりき。其五年十年の歳月を費し、千万巻の図書に資して組織せんとするの哲学は、僅かに無神無霊魂の一篇に其鱗片を現せるのみ。悲しからずや。

先生又書画を善くす。書は羲之、顔真卿等を学びて別に一家の妙を具す。画は芥子園画譜を学び、尤も脱俗の趣有り。

第六章 人物

想ふ、二十六年の夏、先生既に酒を禁ず。毎夜晩餐の後、家人と椽側に踞して、古今を論じ風月を談じ或は座中に歩して涼を納れ、常に午後九時十時の更に至るを例とせり。

先生平生夜色を愛す。曰く、夜は雅にして昼は俗也、子の生れたる時より俗なるは莫く、人の死したる時より雅なるは莫し。予は多年思ふ、昼は一家皆な睡臥して、黄昏に至つて初めて起き、三度の飲食は之を夜中に於てし、或は散歩し、或は間談して、以て二三旬を経、妙文を作つて之を記せば、興趣極めて多からんと。先生は実に多感多恨の詩人なりき。

一夜月明に乗じて庭園を歩す、樹木蓊欝として黒く、池水瀲灔として白し。先生俯仰する者久しくして、予を顧みて曰く、我れ此景に対する毎に、杜甫の「四更山吐月、残夜水明楼」の句を想起せざることなし、絶唱なる哉と。

先生の詩を論ずるや必ず杜甫を説き、酔へば常に「出師未捷身出死、長使英雄涙沾襟」の句を吟ぜり、李白に至りては即ち曰く、彼や真に千古の一人也、而も少陵の真気惻々人を動かすが如くならず。少陵は慷慨の忠臣也。太白は無類の酔漢のみと。

先生の杜甫を愛するは、独り其詩を愛するのみならず、実に其人物の高きに拳々たりしが故也。而して其人物に拳々たりし所以の者は、実に夫子自ら第二の少陵たりしが故ならずんばあらず。

先生の飄逸放縦、酒を被り世を罵るや、皮相より之を見る、頗る太白の遺風あるに似たり。然れども其一生を通じて凛乎たる操守あり、血性あり、慷慨の節あるは、宛然として少陵其人たりし也。而して其文や亦仔細に之を見る、冷嘲冷罵の間、自ら至誠至忠の痛涙を蔵して蒼涼沈欝、人を泣かしむる者、宛然として散文的杜詩に非ずや。而して其身世亦轗軻潦倒、宛然として明治の少陵其人に非ずや。

然り先生は、太白に非ずして少陵なりき、司馬徽に非ずして諸葛亮なりき、本多佐渡に非ずして、真田幸村なりき。

予曾て曰く、仏国革命は千古の偉業也。然れども予は其惨に堪へざる也と。先生曰く、然り予は革命党也。然れども当時予をして路易十六世王の絞頸台上に登るを見せしめば、予は必ず走つて劊手を撞倒し、王を抱擁して遁れしならんと。此一語以て如何に先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なりしかを知るに足る可し。

然れども、先生の敗るる、又実に之が為めなりき。先生の多血多感なる、直情径行を喜びて、迂余曲折を悪む事甚し、義理明白を喜びて曖昧模稜を悪む事甚し。果決を喜びて因循を悪み、簡易を喜びて繁褥を悪み、澹泊を喜びて執拗を悪み、直言忌むなく、敢為憚るなく、直ちに其理想を現実せんが為めに、社会を敵として激闘す。而して革命家に敗れ、商人に敗れ、文壇も亦た先生を容るるの余地なきに至れり。

而して先生亦自ら其処世に拙なる所以を知れり。酒間笑つて予に謂て曰く、今朝来訪せし所の高利貸を見よ、彼れの因循にして不得要領なる、人をして煩悶に堪へざらしむ。然れども彼れ甚だ富めり。処世の秘訣は朦朧たるに在り。汝義理明白に過ぐ、宜しく春藹の二字を以て雅号と為せと、予曰く、生甚だ朦朧を憎む、乞ふ別に選む所あれ。先生益々笑ふて曰く、然らば秋水の二字を用ゐよ、是れ正に春藹の意と相反す。予壮時此号を用ゆ、今次に与へんと。予喜んで賜を拝せり。屈指すれば匆々十余年、真に隔世の感有り。

嗚呼先生は、多感の人のみ、多血の人のみ、仙人に非ず、畸人に非ず、狂人に非らざりき。徳富蘇峰君、「一年有半」を評するの文に又曰く、約言すれば、著者(先生を謂ふ)は著書よりも、品格に於て高く、人物に於て愛好す可きものあり、著者は真面目の人也、常識の人也、夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲して克はず。為めに時に酒を仮り、時に奇言奇行を藉り、以て其自ら世と容れざる悶を排せんと試みたるのみ。而して世人往々仮を以て真と為し、真に君を奇人視するに到る、是れ豈に君の知己なりと謂はん哉と。蓋し知言也。

然り先生の時に酒を仮り、時に奇言奇行を仮りて悶を排するや、如此きものあり。但だ酒や酔醒あり、身漸く老い、気稍や衰ふに至つて、更に自然の愛す可きを知る。謂らく、故らに酔を成さんと願ふ、是れ齢を促るの具にして、強て功を成さんと競ふ、唯だ生を傷ましむるに過ぎずと。而して酒を禁じ、行を慎み、一に自然と家庭と道義に向つて楽地を求めたり。故に見よ、先生の晩年其身を持するや、命に安んじ貧を楽み、流雛敗残の余に処して、曾て天を恨みず、人を尤めず、悠然晏然として栄辱の外に自適し、死生の表に達観せることを。

蓋し古人言へり、「節義青雲に傲り、文章白雪より高きも、若し徳性を以て之を淘溶せずんば、徒に血気の私、技能の末たらんのみ」と。先生は爾く多感多血なりしと雖も、而も徒らに血気の私、技能の末に齷齪たる者に非ざりき。彼れ其れ実に徳性を以て自ら之を淘溶し、以て其真を保ち其道を全くするを得たりし也。

先生「一年有半」の稿を起すの前、予其自伝を著さんことを勧む。先生哂つて曰く、我れ一寒儒の生涯、何の事功か伝ふるに足る者有らん哉。且つ夫れ自伝を艸する、勢ひ知人故旧の秘密を暴露せざるを得ず。彼のルーソーの如きは忌憚なきの甚しき者、是れ予の忍ぶ能はざる所也と。予其謙遜にして人情に厚きに服し、強て又請はざりき。

嗚呼、正を懐き道に志すの士、或は玉を当年に潜め、己を潔くし操を清くするの人、或は世を没するまで以て徒に勤か、古よりして然り。先生の才之誠にして、一生不遇にして老死せし者、却つて其人品の甚だ高きを見る可らずや。

第七章 書柬(上)

人の天真を見んと要せば、其尺牘に若くは無し、而して先生に於て殊に然り。先生曾て予に与ふる所、悲壮なる者、飄逸なる者、笑ふべき者、泣くべき者、篇々皆真情の楮表に流露せざるはなし。惜らくは其半ばを散逸す。今現に存する者に就て十余通を抜き聊か評注して下に載す。

其一は、明治二十八年春、予の広島新聞に載筆するの時に寄せらるる者。曰く、

御紙面拝見仕候、初刊には至極御整頓之状相見へ敬読仕候、貴地の風俗縷々御申越し、何様関西は緩慢之風有之、大阪さへも随分気永きに堪へず、況して御地は特に甚しかるべし、しかし折角御出込に相成候上は今暫く御滞在可然、且又新紙の為めにも今暫く御勉強必要と奉存候、御推察の如く小生は日々檐頭に背を曝し梅を齅ぎ居申候、娑婆世界の幸福には充分に御座候、唯いつも欠く所は孔方兄のみ、御一笑可被下候、太田氏へは別に不寄書、宜敷御伝語被下度候、同氏も隻眼を失し、嘸々不自由を被感可申、しかし猶一隻を余し、不幸中の幸と奉存候、徳富君御高会之節是又宜敷御伝語奉願候、先は貴答草々不一

三月十三日  中江

幸徳様

予の初め広島に赴かんとするや、先生懇に其不可を諭す、予聴かずして行く、果して先生の言の如し。而して予の直ちに帰京せんとするや、先生又此書を寄せて慰諭して止まらしむ、予又聴かず、留まる僅に二ケ月にして京に帰り、中央新聞に入れり。

明治卅年冬、松隈内閣殪れ、伊藤博文代りて立つや、中央新聞之が機関たり。予屑しとせずして去らんことを言ふや、先生書あり。曰く、

御紙面拝見、腸窒扶斯病御煩ひの旨、御軽症にて追々御快方之由、奉大賀候

主義云々御申越一応御尤様に御座候得共御老人も御存在、何分此社会は衣食と云ふ必要条件有之、幾分の志を曲ぐることは不得已次第にて、孟軻も為めに禄仕の一遁路を開きたる儀にて、且又新聞紙に従事するに付而も、必しも自己に反対の説を主張するにも不及、其変は所謂手加減に御遣り可然歟、唯近日云ふ所の提携又は買収等は特に難堪き者にて、如何に衣食の為めとは云へ、左りとは縊死するに劣る事万々なれ、士君子の宜く避くべき所に可有之候、此複雑の世に処しては、伯夷柳下恵の中間を行くこと肝要かと愚考仕候生も不相更孜々汲々たる事にて未好果を収め不得、しかし経綸は漸々歩を進め居候故、追々奏効の期も近寄り候と存居候、他日或は飲水著書之楽も得らるべく、其節は御相談可申上候、右貴答、余拝眉

九日  中江

幸徳様

御病後御大切被成度、殊に末期は食料御慎み専一奉存候

何ぞ其懇到なるや。而して予は又々先生の慰諭を聴かずして、中央新聞を去る。先生即ち予を黒岩涙香君に介して朝報社に入らしめたり。嗚呼予当時年少気を負ふて放縦、東西瓢蓬頻に先生を煩はす。今にして之を思ふ、慚愧何ぞ堪へん。

一昨年八月憲政党諸子が挙て伊藤博文の膝下に拝跪し、其僕従たらんことを希ふや、先生憤怒して書を飛し来る。曰く

甚暑難凌、皆々様御壮健の由奉大賀候、新政党の非立憲なる非自由なる申迄も無之、就ては祭自由党文と題して大兄之椽筆を揮はれ度、自由党之歴史を掲げ、幾多人士が生命財産を失却したるも、今日に至り二三首領の椅子熱の踏段と成りたるに過ぎず、所謂祭自由党文は、好一篇の悲壮文字を做すに足るべく、是非御一揮相成度候、将た新政党将来に関し、老生探得したる事も有之、其中常野鉄道より電話を以て御呼可申候、拝

二十六日  中江

幸徳様

此書筆跡亦龍蛇の飛動するが如く、以て其意気の如何に坌湧したるかを見るに足る者ありき。予が同月卅日の万朝報紙上に自由党を祭るの一文を掲げしは、実に這の書簡の為めに炎々たるインスピレーションを与へられしが為めなりき。

次で同九月十九日左の書あり。

不相更紙上御健闘之段、為国家珍重之至に奉存候 先年英仏対訳小字典御譲り申候とボンヤリ相覚へ居申候、若果て左様にて目下御必用に無之は一時拝借仕度乍御手数小使を煩はし常野鉄道迄井上言信氏を宛てて御届被下候様奉願候国民同盟会之設は時節柄至極面白く被思申候、内幕御探査相成度、新政党の側にて余程気に致し居候と被察、本日之国民日々両新聞に長々論じ有之御一覧相成と奉察候、先は用事、草々拝

九月十九日  篤介

伝次郎様

当時先生寖々牙籌に倦みて、文学の楽みを思ふ。且つ再び政界馳駆に意あるが如くなりき。書中言ふ所の字典、先生手沢の存する所、予深く愛護せしに、数年前人の為めに持ち去られて返されず、今果して誰氏の手に在る乎。書中の新政党は政友今を謂ふ也。

予の字典紛失の事を謝するや、先生左の答書を与へらる。

御紙向拝見仕候 小字典紛失之旨、右は決して御心配被成間敷、強て御詮議相成事は御無用被成度候、若し他に御世話被下候はゞ一時借用仕度、極々簡単なるものにて宜敷、英仏対(仏英対に非ず)之方所望に御座候、小生巴里に居候節、少々英語を修めたるも、其後打棄候より、今日閑に任せ、楽み半分英文を読習致候処、羅甸若くは仏蘭西より変化したるものは大抵推読候得共、純粋のアングロサクソン語は、対訳を須ゆるに非ざれば到底理会出来不申、夫故一時相用ひ度、御序之節常野鉄道事務員の手迄御届置き被下度奉願候、国民同盟今は将来或は面白かるべく、大兄御閑暇も有らば公爵に面会被成、其人と成り如何、其決心如何、器識如何等御藻鑿相成候ては如何、元堂上的門閥家を利用するも時に取りての好策かとも被存申候、拝

九月二十三日  篤介

伝次郎様

予は匆惶丸善に走りて、小字書を購ひて送呈したり。而して予は竟に先生の命を奉じて書中の所謂公爵に謁するの機を得ず、先生先づ趨つて国民同盟会に投ずるに至れり。

七年春、先生大阪に於て病に臥す。四月予著す所の「帝国主義」論を評するの書あり。

貴著帝国主親御恵贈被下奉謝候、病中退屈早速誦読卒業、議論痛絶所謂疾之身に在を忘れ申候、行文勁練、而も醞藉之趣を失はず、敬服之至に候

今日之所謂帝国主義、正に純然たる黷武主義にて秦皇漢武之暴を行ふに、科学に基ける精利之器を以てするもの、実に古今之惨を極むと謂ふ可し、若し此際に於て古のアリスチード、シンシナチュース、周武、殷湯、諸葛亮、曾国藩等の如く、真に止戈之目的を以て、亜細亜大陸に雄張するに於ては、他年世界平和之大義或は庶幾す可き歟と被存申候、此等大事は到底今日之斗筲輩と論道す可きに非ず、可嘆可嘆、先は御礼、草々拝

廿八日  篤介

伝次郎様

鄙著に対する美言は、固より当らずと雖も、而も先生が晩年国民同盟会中の一人たりし者、決して其武断侵略を喜べるが為めに非ざりしや、以て知る可き也。後ち幾くもなく一年有半の宣告は下れり。

第八章 書柬(下)

婦人の涙は溶けて滴る。丈夫の涙は凝て流れず、溶けて滴る者は為めに慰藉を得べし、凝て流れざる者は更に悲痛を加ふるのみ。予が去年八月泉州堺に先生の病床を訪ひ「一年有半」の稿を抱て京に帰る後、先生屡々寄せらるるの書簡、一点の涙痕あるを見ずして、而も篇々、自ら不遇なる天才の末路を写出して、人をして悲痛に堪へざらしむ。

見よ、先生が其「一年有半」の稿を以て自ら畸形児を分娩せるに替へたるを。

御書面拝見仕候、御首尾能御着京之旨奉大賀候、識に此度は十数年来之酷熱に際し遠路態々御来訪被下、且鄙著に付而は種々御配慮、此上宜敷奉願候、空谷の跫音と申候得共、夫よりも更に甚敷、殆ど難産之婦人が穏婆に遇ひたる時は斯く有る可しと相感じ申候、即ち僅に生み落したる畸形児を御托し申候上は頭まを撫し湯を遣はし、可成不具の醜を去り、且つ健全に肥立候様至願に御座候 昨日は大坂毎日記者故曾田愛三郎氏之姪態々来車、談著述(朝日に出たる故)の事に及び候より、大兄之御来車に際し鄙著を托し候旨申候て、本日の紙上に現はれ申候、御地気候霍然改まりたる由、当地少々ゆるみたるも今猶ほ蒸熱く、しかし名古屋も降雨中之由に御座候へば、当地も近々甘雨に沾ひ可申相待居申候 今少々暮能く相成候はば、此先又少々執筆致度考居申候御多忙中には可有之候得共、出版の事は相成るべく御取急ぎ被下度、病中相楽み居申候、御賢察被下度候 御母堂様初御令閨へも此度之御礼御伝言被下度、時下厚く御保体専一被成度候頓首

八月十日  兆民

秋水賢兄

鄙稿中醜き処は御遠慮無く、御刪正被下度候

其翌、又到る者曰く、

炎熱之候にも不管、御帰宅早速書肆に御掛合等被下、御厚志之段、奉謝候 紙数僅々たるものに候へば、原稿如何に高価に售らるるも知れたるものに御座候間、矢張版権を所有し置き、印税に致候方可然被存申候分袖後直に又々執筆可仕相考候処、当地は今に炎熱甚敷、加之頃日来頸頭の塊物隠々疼痛、且喉頭部緊迫殊に甚敷、為めに唯ブラブラ致居申候 写真は小生巴理に留学中に取りたるもの、先日二六新報へ借したる旨、其思召にて同新聞社より御取り被下度候三酔人と理学鈎玄、並に革命前二世記事とは根岸金杉村笹の雪横町に住居の根岸兎三郎氏の手を経て、抵当(たしか三百円)に成居候、右の如く三部とも版権所有し有るも抵当に相成居候得共、根岸氏の事故、何とか噺出来可申被存申候毎夕の論文と百零一の論文とを附録とする時は、毎夕の方を前に出す方可然被存候、是等も一時の走筆に候間、余り醜き処は御遠慮なく、御刪正被下度候 先は早々貴答而已

八月十一日  篤介

伝次郎様

当時の炎暑は実に甚しかりき、而して先生の病勢は、日に悪しかりし也。

予は「一年有半」の魯魚校訂の事に当るも、之に序するは、別に其人あるべきを言ふも、先生聴されざりき。

御書面拝見仕候、炎暑之節種々御面倒相掛御親切御取計ひ被下、感佩之至に御座候、賢兄之序引は是非とも必要に御座候、右は決して御辞避無之様呉々申入候 御地も又々暑気烈敷候由当地久敷雨無し、此三五日間、丸で甑中に在るが如く、殆ど閉口罷在候 万朝夏艸面白く拝見仕候、但小生に関する首段、推奨過当之処は措き、律詩一篇、実は両句丈け記性に存し、余の句はどふしても思ひ出されず、何つか書せんと欲して記性を失ひたる為め止めたる事御座候、御記載に由り実に隔世之惑有り、夢柳も御説の如く一奇才、是又実に夢の如き事に御座候 貴紙上茶代廃止は至極の御挙と奉賛成候、着々純理之道に進まれ、世の物議虚栄を屑とせざる処、快絶奉存候、先は右斗、拝

八月十八日朝  兆民

秋水賢兄

初め予の堺より帰りて、遺稿の事を言ふや、黒岩涙香君予に謂て曰く、若し他に出版の方法なくんば、僕之に投資して、朝報社は発售の労を取るを厭はざる可しと。後ち幸に博文館主人の手に托するを得たるを以て、君を煩はさゞることを得たりき。先生之を謝し、且つ「一年有半」中の字義に関して予に誨へらるるの書あり。

御紙面拝見仕候、御令閨様迄御厄介被下候旨、御厚志之段深謝之至奉存候 涙香君の一言、其高義小生に取りては、既に賜を拝したるも同様、賢兄より宜敷御礼御伝言被下度候「城を背にして一を借る」左伝の語にて、即ち城を背にして一戦せんの義、一を借るとは、洒落て「一つ御見舞ひ申さん」と云ふも同じ「崑崙に箇の棗を呑む」は、甘艸丸呑と同じ、崑崙とは正に「丸るで」「噛まずに」の義、「論語読みの論語知らず」も同義也、御推察の如く禅語なるも、唐宋の俗語に御座候万歳新聞云々、実に其筋の不学無術なる「社会主義」とか「民主主義」等の字面を畏るる虎の如し、安ぞ知らん百歳の後、或は三五十歳の後は、復た此等の語を畏るるに暇あらざらんことを、呵々 当地未だ一滴の雨無く、暑威甚敷毎日昏々打眠するのみ、秋涼を以て今少々執筆(他の種類のもの)し度と考居候得共、其時分には体状不許や否、大抵は出来べくと考居申候、頓首

八月十三日  兆民

秋水賢兄

越て九日、先生の書は曰ふ。

拝啓仕候、御校正被下居候由、奉謝候、製本は五部丈手許へ御送附被下度、又五部は留守宅へ御届被下度、子供等の事故一部も散らかさぬ様、御注意御与へ被下度、将又残余十部は、賢兄に御任せ申候間、新聞の重なる者へ御送被下たく、其他は賢兄の御随意被成下度候。

先般三国誌と陶淵明集御送被下、早速落手之事御報可申処、何やかやの為め延引仕候、右は日々好伴侶として誦読仕、御蔭を以て大に消遣の策を得申候 当地も一昨来雨降り、大に暑気を一洗し候得共、今日頃より又ぢり〳〵暑に復し来る勢に御座候 小山赤十字病院へ入候由、腫物追々フキ切候由に付、或は幸に全癒得可申、祈望此の事に御座候、先は右斗、拝

八月二十三日  兆民

秋水賢兄

御尊母様御帰省之由、暑之時分、御老体御壮健、何よりの御事に御座候

幾くもなく「一年有半」刻成る。挿む所の先生壮時の小照、複写拙にして、甚だ原状と似ず。予其疎漏を謝するや、先生曰ふ。

御書面拝見仕候、校正方御骨折被下候由深謝候

写真之事に付種々御心配相掛け、御気の毒之至、写真抔は肉体に属するもの、どふでも宜敷、唯原版は御留置被下て、其中に家内のものへ御手渡被下座、小生も過日小島の懇勧に任せ、来月十日頃には帰東仕事相成可申、左すれば原稿なり又写真の原版なり、其節御受取申しても宜敷、要之小生か又は荊妻に御渡之程奉願候

小山容体御申越、箇様に苦痛を増ては気の毒之至、全体人畜を論ぜず、動物に取りて、死其物よりも苦痛こそ畏るべきものにて、余り苦痛する様ならば、速かに瞑目する方、余程ましかと被存申候 小生も矢張病勢徐々進行し来候、可成は東帰之上、今百ページ斗り哲学の一システームを書き度と存じ居申候、天果て之を許すや否、唯タハイ無きものにせよ「一年有半」の出版お蔭を以て出来候へば、読者が何と云ふが、小生の心事に於て誠に満足之至、此上は病気は彼れの意に任して、速に進行し来るも、少々猶予を与へてくるるも、問ふ所に非ずと自諦罷在候我日本人余程之学者にても、我両親の事を「愚父」「愚母」と申す習慣有之、怪しからざる事にて、是は必ず「家父」「家厳」「慈母」等寧ろ尊敬愛慕の字を冠むらす事、漢土の礼に御座候、乍序老婆親切迄申上候、御気付とは存候得共、病中退屈に任せ、饒舌仕候、先は草々拝

八月二十九日  兆生

秋水賢兄

書中の小島云々は小島龍太郎君を謂ふ。小山容体云々以下、亦先生哲学の鱗片を露出したる者、非耶。若し夫れ末段の教誨の如き、其情深なる予の感銘忘るる能はざる所也。

九月十日、先生京に帰り、旬余にして「無神無霊魂」の稿成る、予は先生の疾既に甚だ篤きを知り、深く其生前に「無神無霊魂」の発行を見るに及ばざらんことを恐れたりき。左の一書は即ち当時与へらるる者。

昨日も遠路御来車被下、種々御配慮之程奉謝候、扨出版の件は可成御取急被下度、実は今日之処、小生身体猶余裕有之と自信候得共、又石黒の申候には、或は迷走神経が圧迫を受くるも知れずと申候、左候時は心臓の痲痺を起し候間、事極て速に運び可申、可成今一応出版後之評判承知致度、是は病老人之愚痴と御寛恕被下度候、右願用、草々拝

十月一日  兆生

秋水賢兄

嗚呼食喉を下らず、口言ふ能はず、身仰臥する能はず、横臥する能はず、枕を擁して俯伏する者半歳の久しきに及び、二六時中疼痛間断なく、僅に痲痺剤を服して以て眠を誘ふの人に在ては、所謂「老病人の愚痴」は、真に是れ唯一の楽地に非ずや。而して若し尋常人を以て、此際に処せしめば、豈に此「愚痴」を発するの余裕あることを得んや。

小山久之助君、先生の帰京を聴き、病を扶けて往て謁す、師弟相見て黯然語なき者之を久しくす。幾くもなく小山君先づ死す。本の露末の雫、老少の定めなく、後先の測り難き真に如此き哉。

小山之死後未だ御目に懸らず、小山を哭するの文御掲載相成、此一世の人より誤解せられて、悪人と信ぜられたる本人も、一種の道楽に悪党自慢して、其実極て不悪党なる御論の如く、実に小児の如く、直情径行、無邪気無害之愛すべき一個の変漢をよふこそ模写して御遣はしに相成、本人地下に於てのみならず、彼を愛したる小生に於て涙を擺て誦読致申候

黒岩氏一年有半の評を始めくれ、大分力を入れて十二分の処へ擬してくれ、大に面白く感じ、大に病中の苦を慰し申候 続一年有半に於ける賢兄之序文誦読を楽み居申候今日又々博文館主人来り、又阿堵物持来り呉れ候、どうやら、十七日頃には出版発売の運と相成可申旨に御座候、先は右斗、草々、拝

十一日  兆生

秋水賢兄

書中、本人地下の文字を以て、或は無霊魂説と矛盾すと云ふが如きは、元より文章を解せざるの徒のみ、与に論ずるに足らざる也。

今にして思ふ、先生左の書を寄せられしは、実に其死を距ること五旬の前なりき。

詩韻含英御所持成れば、乍御手数御送被下度候、将又含英で無くとも、何か韻礎之本御所持成れば、同様御届被下候様奉願候

十月廿五日

翌二十六日次で左の書を恵まる。

昨日は含英態々御持たせ被下、難有奉謝候、実は頃日来間断無く疼痛候より、夜間寝られざる事屡々にて、折々詩句を思ひ付く事有之、何分韻礎を忘却し困却候より、御無心申上候次第に御座候、病中二首を得申候。一夜を隔てて

残燈吹燄已、涼月半窓明、病客夢方覚、陰虫三五嗚、

西風終夜圧庭区、落葉撲窓似客呼、夢覚尋思時一笑、病魔雖有兆民無

御一笑被下度候

続一年有半は、物が物故余り売行不宜と察し居申候、様子如何哉、奉伺候、拝

兆民生

秋水兄

此詩蓋し実録也、圏点は先生自ら附せる所。予即ち其後詩の韻に次し、蕪詩三首を得て呈したりき。今左に記すと云ふ。

卅年罵倒此塵区、生死岸頭仍大呼、
意気文章留万古、自今誰道兆民無

右一年有半

悲秋寂寞水雲区、渡口扁舟何処呼
驀地勁風天似墨、蘆花歴乱月還無

右無神無官魂論

嵩山大雪圧庭区、半夜何人断臂呼、
面壁先生回首処、寒燈一穂淡于無

第九章 末期

「終に行く道とは兼て知りながら、昨日今日とは思はざりしを」先生、明治三十四年十二月を以て、小石川武島町の自邸に歿す、享年五十有五。其初めて余命一年有半の宣告を受けてより、未九ケ月に充たず。天下知ると知らざると、皆な悼惜せざるなし、哀哉。

是より先き、先生泉州堺に在りて、「一年有半」を著し、次で京に帰りて「続一年有半」を稿す。事は此二書に詳かにして、世人の既に熟知せる所也。十月「続一年有半」刻成るの後、先生苦痛益々劇し、屡々石盤に書して曰く、我今や一の欲望なく、一の執着なし、但だ死の速かならんことを欲するのみ、長く、苦痛せんよりは、別に計を為さんに如かずと。

十一月に入り、臨池を楽しみて以て苦痛を慰せんとし、臥褥の上に在りて雲烟を揮洒す。書する所の楮縑は皆な故旧に頒ちて以て別を為せり。笑つて曰く、我れ人生万事を取て総て放擲し去る、唯だ文雅の楽みは、今に於て忘るるを得ず、奇と謂ふべしと。

此月下旬に至りて、疾益々篤く、頭脳昏々として、時として夢と現とを弁ずる能はず。筆談の文字往々顛倒し、或は画を成さざるに至る。釈雲照の病室に闖入して祈祷を迫れるは、実に此際に在りき。十二月初旬疾頓に革まり、此月十三日午後溘焉として遂に起たず。

翌十四日午後、親戚浅川範彦、葛岡信虎、友人小島龍太郎、門人初見八郎、原田十衛の諸君、先生の遺骸を大学病院に送りて解剖に附す、予も亦従ふて往く。岡田博士、先づ参観の諸生に向つて説明する所あり、次で山極博士刀を執て、喉頭より一気に割て臍下に至る。予未だ人体解剖の状を知らず、一見して悚然面を掩はざるを得ざりき。少らくして肋骨を剪り、肺胃を出し、咽喉を検す。砉然嚮然として庖丁の牛を割くに似たり。

此夕遺骸を棺中に歛む。諸君其頭を抱き、予其両脚を拱す。囲繞する所の男女数十人、歔欷の声室内に満つ。予亦た涙滂沱として禁ぜず、走つて暗中に入て慟哭する者之を久しくせり。

越て二日、葬儀を青山に行ふ。先生の遺教に従ふて、又一切宗教上の儀式を用ゐず。式は板垣退助君の弔文朗読に始まり、大石正巳君一場の演説を為し、野村泰享君又弔文を朗読し、土居通予君輓詩一律を吟じ、他二三の諸君追悼の詞を朗読し、皆柩前に敬礼して散ぜり。此日会する者五百余名。

嗚呼兆民先生、今や則ち亡し。然れども古人曰はずや「霊長香火、千載遍華夷、坡老姓名、至今口于婦孺、意気精神、不可磨滅」と。然り意気精神は磨滅す可らず、先生死すと雖も、猶ほ生けるが如し。

蓋し聞く、一塊の廬山、峰巒岡嶺の体勢各々一ならずと。偉人の多角多面なる亦之に同じ。之を写して豈に能く写し尽すと言はんや。唯だ予が見たる兆民先生は実に如此し。予が追慕する兆民先生は実に如此し。明治三十五年四月末日記す。


底本
現代日本文学全集22 幸徳秋水・大杉栄・堺枯川・荒畑寒村・田岡嶺雲・河上肇集(筑摩書房、1972年)、pp.3-23.

「兆民先生」を読む

巻を掩うて瞑想すれば覚えず涙下る。是れ読書人が読書の際に於ける無上の満足である。予は秋水君の「兆民先生」を読んで確に此満足を感じた。秋水君に謝すべきか、兆民先生に謝すべきか。思ふに、予の感涙は、兆民先生と秋水君との交情に対して流れたのである。

此一小著(予は敢て一小著と云ふ)、固より広く兆民先生の人物才識の全幅を示すには足らぬ。只、兆民先生の胸の底なる深き井と秋水君の胸の底なる深き井と、幾条の水脈相通じて、交感融合して居る事を示す者である。「書柬」上下二章の如きは、殊に其水脈の滴々として見られるのである。予の涙も亦其滴々に融合せんと欲して流れたのであらう。

更に其水脈に趣きを添ふる者は、書中に写し出されたる小山久之助君である。兆民先生の心の井を中心として、幾多親戚友人の心の井が、其周囲に円を作つてあるべきが中に、秋水君と小山君とが一片の弧を作つて、先生と共に三角形を成して、互ひに交感流通して居る有様は、実に何とも云はれぬ床しさである。

人は秋水君を能文の士と云ふ。君も亦自ら「先生我れに誨ふるに文章を以す」と云ふ。謂ゆる能文の文の字と文章の文の字と、其意味が同じであらうか。予は此書を読んで秋水君の筆の才を認める暇が無かつた。予は秋水君が文筆の才人として称せらるるよりも、師友に対する忠厚惻怛の人として認められんことを希望する者である。

底本
同上(堺枯川集、よろづ文学(抄)所収)、p.96.