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2007.02.16
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カテゴリ:随筆
昨日午前中、東京都台東区橋場の山口組国粋会の工藤和義会長(70)宅の2階居間で、工藤会長が頭から血を流して死亡しているのを訪れた国粋会構成員が発見し、警視庁浅草署に届け出た。
工藤会長が左手に拳銃・マカレフを握っていた事から、自殺したと見られている。
国粋会は今月5日に西麻布で発生した住吉会住吉一家小林会会長代行射殺事件の当事者と見られている。
8日には山口組の最高幹部が上京し、住吉会最高幹部との話し合いで手打ち。その席上で、工藤会長の責任問題が落とし前として話し合われたのではないかと言われている。
国粋会は1958(昭和33)年、大物右翼であった梅津勘兵衛 関東国粋会会長を後見人に銀座のドン・隻眼の森田政治 生井一家総長を初代会長に、渋谷のドン・高橋岩太郎 落合一家総長を右腕に設立した博徒系やくざ。
本部はソープランドが立ち並ぶ吉原の中の台東区千束。
由緒ある博徒団体が多数参加し、銀座・赤坂・六本木・日本橋・新橋・築地・渋谷・三軒茶屋・麻布・新宿(後に脱退し二率会設立。現在は住吉会に移籍)・上野・浅草・吉原等と、ネームバリュー的には無名ながら都内の盛り場のほとんどを掌中に収める実力派組織となった。
しかし、伝統ある組織が寄り集まっただけに、会長を中心にする中央集権型組織ではなく、各組織がそれぞれで運営した寄り合い組織、つまり地方分権型組織であった。それを、工藤会長は就任時から、中央集権制に移行しようと奔走した。
工藤会長の出身は国粋会金町一家。国粋会においては構成員も少なく、歴史的にもそれほど深くない組織。
そのため、最初から反発は強かった。その中で強引に、組織を中央集権にしようとしたために内部分裂が起こった。それは、国粋会の組織を二分する抗争となった。東京の覇権を競う性質も裏ではあったので、主流派には稲川会。反主流はには東京の覇権を握る・住吉会がついた。銀座を掌中にしようと画策する稲川会と住吉会の代理戦争の様を呈していた。
その中で葛飾区四つ木斎場において、稲川会の組員が、葬式に出席中の住吉会の大幹部三人を射殺する前代未聞の事件が勃発。
2001年から2003年にかけて行なわれたこの内部抗争は、驚く事に当時・山口組のNO.3的な地位の若頭補佐で、現在は当代の司忍 六代目の仲裁で終結。形成的には悪いと思われていた工藤会長率いる主流派が司忍を仲間に加える事で大逆転。攻勢であった反主流の大幹部たちは引退に追い込まれた。
しかし、同業者の関東ヤクザたちには、この行動が反発を生んだ。関東ヤクザは、関西ヤクザ、つまり山口組の東京進出を警戒し協定を結び結託していた(関東二十日会)。そして、工藤会長は、稲川会 稲川土肥 三代目会長の五輪下がりの舎弟の縁組をして地元の関東ヤクザとの関係を強固にしていた中の出来事だったために不信感を募らせていた。
それにも増して、2005年5月に、その稲川土肥 三代目が急死をすると、義理も無く衝撃の山口組傘下入り。自分は最高顧問という役職に落ち着き、関東ヤクザの中では裏切り者の汚名を着させられている状況であった。
その中での西麻布での今回の住吉会住吉一家小林会会長代行の射殺事件。責任が工藤会長に及ぶのは本人にも分かっていただろうが、関東ヤクザに燻る、工藤会長への不信感に、国粋会反主流派にふつふつといまだに燻る憤りの中から、跳ねっ返りが出てくる可能性も出てくる事も予想される。ヤクザは現役のうちが華。大物でも引退すれば、元・自分の舎弟に殴られるなどの跳ねっ返りの事例も珍しい事ではない。そういう恐怖があったのだろうか?
また、工藤会長の出身母体・金町一家は世間的には山谷争議の当事者としてつとに有名である。山谷争議とは、1983年頃から、東京の山谷地区(現在の清川・日本堤・東浅草)で、日雇い労働者を斡旋して金をピンハネする金町一家組員と、それに反対する新左翼の山谷争議団の衝突が続いた事件の事を言う。山谷は日雇い労働者などが生活する街として知られる。そこには仕事を求める労働者に斡旋する手配師もいる。工事の場合、まず大手ゼネコン・国土交通省・各自治体などが発注し、そこに元請→下請→孫請と、中堅・中小の土建業者が続いていくのだが、その会社の従業員の他にどうしても日雇い労働者が必要になってくる。それを職安などを通さずに斡旋するのが手配師である。手配師は中小土建業者と契約し、そこから報酬をもらう他、日雇い労働者の給与のピンハネすらする。こうして日雇い労働力の売買が行なわれている所を「寄せ場」と呼ぶ。1981年10月、こうした「搾取」に対抗すべく、新左翼系の「山谷争議団(全国日雇労働者組合協議会山谷支部山谷争議団)」が、「山谷日雇労働組合」や「6・9礒江洋一闘争の会」を母体に結成された。争議団は「暴力団手配師の追放」「労働者の待遇改善」「労働争議解決」を主に訴えていた。
その山谷を縄張りとするのが、工藤率いる金町一家だった。そして、ピンハネする手配士が金町一家の組員の仕事であった。
この事件は、日本では珍しく武力衝突が何度と無く起こった。しかし、決まって逮捕されるのは争議団のメンバーばかり。この頃から、工藤会長と警察の結びつきが強くなっていったといわれている。
その中で、1984年12月22日午前7時ごろ、台東区日本堤二丁目で、パンを買っていた映画監督・佐藤満夫さん(37歳)が男に背後から包丁で刺され、9時前に病院で死亡した殺人事件がおきた。佐藤さんは山谷でドキュメンタリー映画「山谷-やられたらやりかえせ」を撮っていた。
また、1986年1月13日朝、争議団幹部の山岡強一さん(45歳)が新宿区大久保の路上で、駐車中の乗用車から飛び出してきた男に、首や胸など4ヶ所を撃たれ死亡した殺人事件もおきた。
この二件の殺人事件は、共に金町一家の構成員の仕業であった。
この争議は、現在休戦状態であるが、火種が燻っているのが実情。
警察の威光を少なからず受けて、成り上がった工藤会長。しかし、内部の不祥事で命を追い込まれた。穿った見方なのかもしれないが、今回の山口組vs住吉会の抗争も、警察の誘導による抗争に思えてならない。それにより、工藤会長が利用され、いとも簡単に裏切られて、命を落とされたのではないかと。
ヤクザ抗争において相手側を襲撃する際、警視庁捜査4課(マル暴)の情報がリークされる事が非常に多く、これらは警察権力の必要性を国民に認知させ、警察の違法業務も盲目に黙認させるための心理状態を国民に根付かせるための謀略が蔓延っている。
今回の抗争から自殺につながる流れは、その陰謀の臭いを非常に感じさせる事件であると私は思う。





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Last updated  2007.02.17 04:26:37
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