Facebook(フェイスブック)の実名制、日本では「支持」「不支持」ほぼ同率に

http://business.nifty.com/articles/topic/110117_02/

全体にFacebookのような実名制のSNSについてどう思うかを尋ねたところ、「よいと思う」が22%、「よくないと思う」が24%、「分からない」が54%となり、意見が大きく分かれた。よいと思う理由としては「発言に責任を持つようになった」「ネット社会でもうそが少なくなりそう」「情報の信頼性など、より実用性の高いコミュニケーションが可能」という意見が挙がった。
一方でよくないと思う理由としては「個人情報を悪用されるかもしれないという不安がある」「トラブルが起きそうで怖い」「日本の社会風土には合わない」などがあった。

風邪気味と押し寄せる仕事の合間に、無理やり、映画「ソーシャルネットワーク」を観てきたのですが、フェイスブックが依って立つ、米国と日本のカルチャーの違い、ということを強く感じました。
元々、フェイスブック発祥の米国カルチャーでは、自分を際立たせる、際立たせた自分を他人に知ってもらう、といった人々の志向があり、SNSでもリアルな自分というものが基盤になるのが必然である一方、日本の場合、本音と建前を使い分けるという文化の中、リアルな自分は際立たせず目立たせない、本音はリアルな自分とわからないところで話すという土壌があって、そういった中で「匿名」が支持され今でも根強い、と言えるように思います。
こういったカルチャーというものは、一朝一夕に変わるものではなく、日本でも急速に人気が出つつあるフェイスブックが、どこまで伸びて行くかということについては、楽観できない面もあるように思います。その辺の事情が、上記の調査結果にも現れている見方もできそうです。
映画は、かなりおもしろく、観ようかどうか迷っている人にはお勧めできます。

2011年01月17日のツイート

小沢氏が聴取拒否、18日に回答 近く強制起訴

http://www.asahi.com/national/update/0117/TKY201101170420.html

小沢氏はこれまでに東京地検特捜部から4回にわたって事情聴取を受け、政治資金規正法違反(虚偽記載)容疑を一貫して否認してきた。
指定弁護士の聴取は、特捜部が作成した供述調書の内容のうち、不明確な部分などを確認することが目的だった。

どういった点について取調べを行いたかったかはよくわかりませんが、既に、当初の不起訴前、1回目の検察審査会議決後に取調べが行われ、供述調書も作成されている以上、今となって取調べを行っても、指定弁護士にとって参考になる情報が得られるとは考えにくいものがありますね。指定弁護士にとっては、慣れない業務でやむをえない面もあるとは思いますが、仕事の手際の悪さを感じさせるものがあります。
法の定めに従い粛々と手続が進められ、その動きを、感情や憶測にとらわれず冷静に見守るということが必要ではないかという気がします。

番組のネット転送は「違法」=著作権侵害認める―テレビ局実質勝訴・最高裁

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110118-00000109-jij-soci

番組送信の主体が、機器を購入した利用者か、管理した業者かが争点となったが、第3小法廷は、「機器が公衆用の電気通信回線に接続され、継続的に情報が入力される場合には、情報入力者が送信主体となる」との初判断を示し、入力設定していた永野商店が送信主体と認定した。

最高裁のサイトに判決文がアップされていたので一通り読んでみましたが、

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110118164443.pdf

これはいかがなものか、という印象を抱いたというのが率直なところですね。
判決では、

公衆の用に供されている電気通信回線に接続することにより,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置は,これがあらかじめ設定された単一の機器宛てに送信する機能しか有しない場合であっても,当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であるといえるときは,自動公衆送信装置に当たるというべきである。

と、原審までの判断と真っ向から反する判断を示した上で、

自動公衆送信が,当該装置に入力される情報を受信者からの求めに応じ自動的に送信する機能を有する装置の使用を前提としていることに鑑みると,その主体は,当該装置が受信者からの求めに応じ情報を自動的に送信することができる状態を作り出す行為を行う者と解するのが相当であり,当該装置が公衆の用に供されている電気通信回線に接続しており,これに継続的に情報が入力されている場合には,当該装置に情報を入力する者が送信の主体であると解するのが相当である。

という判断を示し、本件にあてはめ、まねきTVを送信の主体であるとしています。
1つの評価と言えばそれまでですが、本件で問題となったロケーションフリーの仕組み(判決中でも紹介されていますが)が、利用者が単独で使用する際には自動公衆送信装置にならない(そのことは最高裁も認めている)のに、「当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であるといえるときは」、突如として自動公衆送信装置になるという、その前提にそもそも疑問がある上、どういった場合が「当該装置を用いて行われる送信が自動公衆送信であるといえるとき」に該当するかについて、上記のような理由で、まねきTVのような関与者を送信主体と認定し、そのような送信主体との関係では、利用者は「公衆」にあたるから、自動公衆送信を行う装置は自動公衆送信装置になる、と結論付けています。
いわゆるカラオケ法理の適用、ということにもなると思いますが、本人が自ら自分の手足を使って行わなければ本人が主体とは言えない、そういう意味で本人が主体とは言えない(言いたくない)状況下でそこにビジネスとして関われば関わった者が送信主体になるという、まず結論ありきの、倒錯した論理という印象を強く受けます。
今後、この判決について、賛否両論が出ると思いますが、このような、著作権に配慮された機器まで、使い方が悪い(?)からと自動公衆送信装置扱いされてしまうようでは、創意工夫の余地もなく、利用者にとっては不便極まりないでしょう。そのような状況下で、結局、利用者から見放されるのは、一見、手厚く保護されたかに見える権利者ではないか、ということについても、今後、おそらく議論されるのではないかという気がします。

追記(平成23年4月18日):

判例時報2103号124頁(最高裁第三小法廷平成23年1月18日判決)