戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』 | 限界小説研究会BLOG

戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』


戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』
小森 健太朗




 筆者は、このたび刊行された『サブカルチャー戦争』に、「Wから00へ」と「モナドロギーからみた『図書館戦争』」という二本の論を寄稿している。前者は、主に「ガンダムSEED」連作、後者は有川浩の『図書館戦争』シリーズの考察を主題とするものだ。もともと私がこの論集に寄稿しようと思っていたのは、ゼロ年代のアニメの中で、戦争の描きかたが悪い三大ワーストアニメとして、《ガンダムSEED DESTINY》《図書館戦争》《魔法少女リリカルなのはStrikerS》の三作品をあげたことがあり、その三作の戦争観について考察するものだった。その過程で、「ガンダム」に関しては《ダブルオー》も視野に入れて考えた方がよく、さらに、比較考察のためには90年代のヒット作である《ガンダムW》も視野に入れた方がよいという考えから、独立した論を書くことにした。また、『図書館戦争』についても、単独で一本書くべきだと判断し、論を書いた。
 そうすると、あと残ってしまったのが、《魔法少女リリカルなのはStrikerS》に関する考察である。それについてこの小稿で簡単にとりあげることにしたい。

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 二〇〇九年十二月に同人誌として刊行した、筆者と長谷川壌との対談誌「二〇〇〇年代テレビアニメ対談」中の《魔法少女リリカルなのは》を主題とした節で以下のような発言がある。

小森「二〇〇〇年代の萌えアニメに燃え・熱血を加味した作品というと、『舞-HiME』なんかもありますが、やはりこの『リリカルなのは』が二〇〇〇年代の王道をいった作品として突出していると思います」
長谷川「前半はカードキャプターさくらっぽい魔法アイテム集めだったのが、後半は一転ライバルキャラとの死闘、そして黒幕との戦いという、前半と後半で別作品と言ってもいいくらいの温度差がありましたけどね。前半で萌えを印象付けたからこそ、後半の熱いバトルにも萌えを感じられたのかもしれません。もっとも私は彼女たちの使う魔法の形がビームっぽかったので、MS少女の具現版のように見てました。ほら、なのはは色的にウイングで、フェイトは武器的にデスサイズ(笑)」
小森「ただし、戦争の描き方がまずいというのは、二期のA'sから感じていた要素で、その放映時にe-NOVELSでなのは評論を書いたのですが、そこで述べたことのポイントのひとつは、なのはが『話を聞いて』と敵の少女に言い終わらないうちに必殺技を発射しているのをみて、力をもったなのはが、ネオコン・アメリカのように傲慢な存在に変貌しつつあるということです」
長谷川「話を聞いてくれないから、ぶん殴って放心状態にしてから話を聞かせるんですね。アメリカの外交政策の建て前の話ですか? でも、A'sでは本当に戦争しているわけじゃないんですよね。むしろ戦争に見立てている。とある国々(ヴォルケンリッター)が借金状態の国庫(夜天の魔導書)を再生させるのにかなりの量の金(魔力)が必要だからと、近所のお金持ち(なのは達)から暴力でもって奪って行ったら、なのはたちの後ろ盾が総出でひとのもん勝手に持ってくなやゴルァって喧嘩を売りに来た話ですからね。……いつかのドイツの状況に似てなくはない」
小森「ところが三期では、なのはの変貌ぶりはもっと甚だしいところまでいった。なのはは武装魔法軍隊を率いて、新兵を指導する教官になっている。警護しているビルはまるでニューヨークの国連ビルだし、それに襲撃をかけてくるのは、さながらイスラム過激派のようです。で、テロリストたちを撃破して自分たちの正義を信じて疑わないというのは、私としては、戦争の描き方が悪い三大ワーストアニメに数えないといけなくなりました。ちなみに残りのふたつのワーストは『図書館戦争』と『ガンダムSEED DESTINY』ですが」
長谷川「『図書館戦争』は主人公側に守るべき国民が存在しませんし、『ガンダムSEED DESTINY』は守るべき国家がありませんからね。『図書館戦争』は双方の自己満足ですからまだしも、『SEED DESTINY』はテロリストの全面勝利で終わりますから問題外というか、戦争を理解していないとしか言いようがありません。敵キャラクターを綺麗に描き過ぎて殺すに殺せなくなってしまったなんて、いったいどこの少年誌のジレンマなんでしょうね、ほんと」

 右のように、筆者はゼロ年代(2000年-2009年)のアニメに関して、戦争の描き方がまずいワースト作品として、『機動戦士ガンダムSEED(続篇のDESTINYを含む)』『図書館戦争』『魔法少女リリカルなのはStrikerS』の三作をあげている。数ある戦争が描かれたアニメの中で、なぜことさらにこの三作がとりあげられたかについて、対談者の長谷川壌はそこである程度理由と根拠を示しているが、筆者の側では、その対談では充分に根拠と理由を示せなかったので、この稿であらためて考察することにしたい。
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 《魔法少女リリカルなのは》について、その二期が放送中の、二〇〇六年五月に、筆者はe-Novelsの「週刊書評」コーナーでとりあげて論じたことがある(「なのはなははなのな、はななのはなのは」)。その評で筆者は、一期の《なのは》の出来のよさを称揚しながらも、二期《なのは》の戦争の描きかたについていくつか苦言を呈している。
 そのひとつは、二期《なのは》のバトルが、一期と異なり、最終的に味方側にノーダメージで収束・解決してしまう点を衝いて、戦争アニメの描きかたのモラルとして疑問があると述べている。多くのバトルアニメ作品同様、《なのは》でも、できれば避けたい戦いを選ばざるをえないのは、戦うのを余儀なくされる状況に主人公たちが追い込まれるからだ。その点では、一期《なのは》も、二期《なのは》も、なのはたちが戦いに突入せざるをえない状況は設定されている。しかし、バトルを終えた後の結末の収支では、一期と二期は大きく異なり、一期では、なのはの親友フェイトにとっては、母を失い、大事なものを喪失し、各所に被害を出していた。それに対して、二期の結末は、コミックス版のラストで次のような総括がある。「それにしても闇の書事件ってさ 第一級ロストギア関連事件なのに 終わってみれば死者0名 おまけに レア能力つきの魔導騎士と 即戦力レベルの 配下レベルの配下4名までゲットして」。この結末に関して、e-Novelsの書評で筆者は、次のように述べた。
”このセリフにも、二期の展開がいかにご都合主義的だったかが反映されている。あれだけの大事件が発生して犠牲がゼロ、すべてが都合よく収束しすぎているのだ。”(「なのはなははなのな、はななのはなのは」)
 単にこれは結末の予定調和に基づくご都合主義を批判した言ではなく、ギリギリの状況で戦争を選ばざるをえないジレンマと葛藤が、この結末では無効化されてしまうと考えてのことだ。「はやく戦争になーれ」と願うドロシー・カタロニア(《ガンダムW》)のような人物を除いて、アニメの世界でも戦争という選択肢は極力回避が求められるのが普通だが、やむなく戦争という選択をするとき、戦いに犠牲はつきものと覚悟しなければならない。その犠牲を考慮にいれてなおも戦わないといけないからその選択が重みをもつのであって、《なのは》二期の結末のように、戦いを選んでみても結果としてノーダメージで収束しては、戦争がお気楽に選べる選択肢にされているのに等しい。先の書評でもその点を指摘してこう述べている。”こと戦争アニメに関しては、戦争の後、ノーダメージで平和な日常に復帰する作品は、自分にはアモラル--モラルに反する--と思える。たとえこちらの側に非がなくても、たとえ一方的に相手側が悪だったとしても、戦いに突入してしまったときには、それによるなんらかの犠牲を覚悟しなければならない。その犠牲がまったくなく、主人公が勝利して、戦争前となんの変わりのない日常が回復するだけなら、戦争を選択することになんらのマイナス、デメリットがないことになる。要するに戦争が気軽に選択できる選択肢となってしまう。”
 この点とあいまって、一期で戦いに巻き込まれて魔法バトル力を身につけ成長したなのはは、一期の初めにはなかった力を得て、二期の序盤で既に傲慢なふるまいをし始めているのが見受けられる。二期序盤で、なのはが相手に対して、「話を聞いて!」と叫びながら、そう言いおわらないうちに相手にむけて必殺技を放つ場面について、書評では以下のように述べた。”「話を聞いて」と言いおわった後相手の反応を待たず、ひと呼吸の間すらおかず、なのははレイジングハートの光線を発射している。要するにこのときのなのはは、相手の話を聞く気がまったくなかった。ただ「話を聞いて」というのは、ポーズとして言明されたにすぎない。”
 この《なのは》二期に関する書評は、三期《なのは》の方向性を予見したものになっていると言える。というのもこの書評を発表した後に放送された三期《なのは》では、冒頭の小森・長谷川対談で述べられたような、より拡大した戦争描写の弊が見受けられるからである。
 ところで、右の《なのは》評に異論を唱えている論がある。安井健二による「『魔法少女リリカルなのは』にみる例外状態と神的暴力」である。安井は、笠井潔の『例外社会』などを手掛かりにして、筆者の「なのは」論を批判し乗り越えようとしている。その安井の論がどの程度妥当性をもつだろうか。以下、簡単ながら順を追って検討することにした。まず、安井の論では、一期の《なのは》において、シュミットの言う〈例外状態〉が出現しているという筆者の言に関しては肯定されている。筆者は長谷川壌との対談で以下のように述べている。

 魔法の力というのは、現行の警察権力や軍では制御できない超越的な力でしょう。その力をふるって専横をふるう者がいた一期なのはのような状況の場合、法の支配と秩序が及ばない、シュミットの言う例外状態が出現しているわけです。その状態で、秩序回復のために力をふるうことを決断したなのはは、二〇〇〇年代の数あるアニメでも最もノーブルな決意をした尊ぶべき戦士だと思う。(小森×長谷川)

 右の小森の把握に対応して、安井は以下のように述べる。

 『魔法少女リリカルなのは』の第一期においては、現行法、あるいは警察権力などの手が及ばない「魔法」という、特殊な能力を用いた戦争状態がおき、それゆえに例外状態の発生が確認される。このときに「主権」を持つのは誰なのか。それは、事件の発生した世界の住人でありながら、「魔法」に通じており、唯一その状況に決断を下せる存在、つまり、高町なのはがシュミットの言うところの主権者である。(安井144頁)

 ここまでは小森の把握に一致し、その上で安井は、なのはのふるう暴力について、ベンヤミンの暴力論に基づいて、次のように論を進める。

 ベンヤミンは暴力と法及び正義との関係として、「神話的暴力」と「神的暴力」の二つをあげている。さらに「神話的暴力」の中には、法措定的暴力と法維持的暴力があるとしている。(安井142頁)

 その上で安井の論では、時空を管理し、秩序を維持しようとする《なのは》作中の「時空管理局」を「神話的暴力」の体現としている。そして作中の「時空管理局」のふるう力は、正義と言えるものばかりでなく、新たな戦力を獲得するために超法規的な取引に応じているあたりを指摘して、「時空管理局」の「利己的判断」や「いびつな側面が見え隠れしている」と安井は指摘している。
 それに対比される、ベンヤミンの言う「神的暴力」に関して、ニオベ伝説の滅罪的な性格に着目し、一期のなのはがふるう暴力は、「滅罪的」であり、したがって「神的暴力」であると安井は位置づけている(安井146頁)。こと《なのは》の一期の把握に関しては、筆者と安井の把握の間に大きなズレはない。
 だが、筆者と安井の把握は、二期と三期の《なのは》の暴力論に関して、大きく異なってくる。

 第二期に移って、なのはは冒頭の第一話からいきなり敵に襲われることになる。敵の少女=ヴィータは名を名乗らず、しかも、ともすればなのはを上回る力を持って襲いかかって来たのである。これに対し、なのはははじめ、防御に徹し、ヴィータとの言葉のみの対話を試みている。しかし、ヴィータはこれを黙殺し、さらなる危害を加えようとした。ここで、冒頭の小森の論の中で出てきた、話を聞いてといい終わらないうちに必殺技、というシーンが出てくる。確かに、ここだけ切り取ってみれば、ネオコン・アメリカ的な、まず相手の頭を押さえてから交渉する、という上から目線な行動にも見て取れる。だが、前述したように、かなり長い間、なのはは防御体制のみをつらぬいており、ヴィータの猛攻をこれ以上防ぐのは危険、と判断したために攻勢に出たと解釈するほうが正しいだろう。(安井149頁)

 この場面の解釈だけで言えば、安井のこの指摘は一定の正当性がある。ただ、この場面の解釈は、両様にとることができ、どちらかの論が正しいと断じるわけにはいかない。また、この箇所の解釈の相違は、さほどの大きな意味をもたない。
 また、筆者は長谷川壌との対談において、以下のように述べている。

 (なのはは)自分の教練についてこない新兵に対して「少し頭を冷やそうか」と鉄拳制裁を加える。そのときのなのはの表情は、販売されたDVD版ではかわいい顔に修正されてしまいましたが、もとの放映版では死んだ魚のような目をしている。このダークな顔を描いた原画マンは、力をもったなのはの堕落に鋭敏に対応していたのだと思う。(小森×長谷川)

 安井はこの点を取り上げて、「ああいった崩れた作画は、第一期、第二期のときから割合よく散見されるものであり、今回に限ってダークな部分を嗅ぎつけたとか、そういう意図で作画されたものではない」(安井154頁)と反論している。この指摘はそのとおりかもしれないが、現に崩れた作画があるときに、そこに物語の意図を読み込む解釈の自由はある程度許されるだろう。筆者の解釈はたしかに安井の言うように「かなり穿った見方」であるだろうが、そこに意味を読み込む解釈の自由は許容されてよいと考える。ただ、この点は見解の相違として流すことができるものであり、深刻な意見対立をもたらすものではない。
 安井の論で問題なのは、三期のなのはの暴力を、〈神的暴力〉であると強引に位置づけ、小森の論に反論しようとしているところだ。右に引用した、小森による三期なのはの力の堕落の指摘に関しては、安井は「この指摘は、それほど間違っているわけではない」(安井151頁)と、その妥当性を認めている。なのはが、新兵教育などでふるっている暴力などに関して、安井もまた、それを単に正義の暴力と同定するわけにはいかないと認めている。
 三期《なのは》で最大の敵となるスカリエッティに関して、安井は次のように述べている。

 第三期の敵であるナンバーズ及びスカリエッティには、おおよそ、政治目的というものが存在しない。政治目的とは、言い換えれば、自分が信じる正義の社会を達成することである。自分の行いこそがが正義であるという確信犯のもとで、殺人や暴行などの手段を行使するからこそのテロリズムである。では、スカリエッティ達にはそれがあったのだろうか。……(中略)……スカリエッティに政治目的があるのであれば、それから先の未来について触れていなければならない。いわゆる、破壊の後の再生である。しかし、スカリエッティにはそれがない。純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである。(安井152頁)

 このように安井は、スカリエッティを純粋な悪と措定した上で、それを倒すためのなのはの暴力は正義であって、したがって「神的暴力」であると述べている(安井153頁)。この安井の措定は、ベンヤミンの規定を参照しても、「神的暴力」の正しい把握とは言えないものが含まれている。ベンヤミンは「神話的な暴力には神的な暴力が対立する」と述べ、前者は「法を措定」し、「境界を設定する」ものであるとする。それに対する「神的な暴力」は、「法を破壊」し、「限界を認めない」(ベンヤミン59頁)。これ以前の安井の論では必ずしもそうではなかったが、この箇所で安井は、なのはの暴力を擁護するために、それが正義の暴力であり、したがって「神的暴力」にあたるものだとする牽強附会に陥っているとおぼしい。
 むしろ安井が三期《なのは》擁護の根拠にしようとした、敵・スカリエッティが純粋な破壊しか望んでいない描写にこそ、三期《なのは》の戦争の描きかたの病弊が集約されるところであると指摘することができる。
 ストーリーに則していえば、たしかにスカリエッティの喋る台詞やその行動からは、純粋な破壊を望んでいるとして思えない。だが、そのような人物が自殺することはあっても、多くの同調者を得て、対立する政治勢力を指導する立場になることは普通はありえない。本当の意図を隠して同調者を集めていたとしても、偽りのプロパガンダのみで、反権力組織を育成・拡大することは難しいだろう。スカリエッティの一派が強大化したのは、その主張に共鳴・同感するところが多かったためであり、それは現時点で権力をもっている〈時空管理局〉への不満、打倒願望などを梃子として、多くの賛同者を集めていったとおぼしい。つまり、そこには、現権力に従属・追従することに代わる行動原理なりなんらかの理想が提示されていたはずであり、たとえスカリエッティの本心が純粋な自殺願望だったとしても、その理念を核としては反権力運動は強大化しえなかっただろう。「純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである」とする安井のスカリエッティ把握は皮相的であると言える。
 だが、物語内でスカリエッティは、純粋な悪としてレッテルを張られ、排除されてしまう。この排除を、法秩序の維持や法を構成し措定することとは異なるから、「神話的暴力」ではなく、したがって「神的な暴力」であるとする安井の論は強弁でしかない。
 むしろ対立者を、「純粋な悪」と措定して抹殺される存在としかみなさない排除には、「正義」を執行する側の自己神化として危険な、異分子排除につながるものがある。それが、《ガンダムSEED》や《図書館戦争》と通底する、《魔法少女リリカルなのは》三期の、戦争描写の弊であると言える。


(註)アニメ作品については、《 》を用いて、他と区別した。

引用・参考文献 

安井健二「『魔法少女リリカルなのは』にみる例外状態と神的暴力」(『近畿大学日本語・日本文学』第12号)2010年3月
小森健太朗・長谷川壌「2000年代テレビアニメ対談」2009年12月
小森健太朗「なのはなははなのな、はななのはなのは」(e-NOVELS週刊書評)2006年3月

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