「ミスター透明人間に対する憤激」独シュピーゲル・オンライン4月11日付記事全訳


出典記事:http://www.spiegel.de/panorama/0,1518,756392,00.html

記者:ファビオ・ゲーリ、ジェンス・ヴィッテ

何週間にも渡って、東電のトップ清水正孝は福島危機において悪い印象を残してきた。最近彼が震災供養の行事に登場した時も、悪評を重ねることになった。清水社長が災害に対して明確な行動の計画を示せておらず、狼狽を見せ続けるなか、東電グループに対する怒りは大きくなっている。

清水社長は月曜(11日)に福島県庁に再び登場した。電力企業東電のトップは会社の青い制服を着ていた。正確に14時46分に彼は頭を下げ、しばらくそのままの姿勢でいた。3月11日の同時刻、マグニチュード9.0の地震が日本を襲い、破壊的な津波を引き起こした。この時間、日本中の人々が黙祷を捧げていた。

何週間にも渡り清水(66)はその姿を公に見せなかった。自らの企業が最大の危機を迎えていた間、彼は姿を消していた。福島第一原発で彼の従業員が更に大きな惨劇を防ぐために生命を賭して作業している間、彼は言葉を発することができなかった。もはや亡霊と呼ぶしかない。

清水が黙祷の時を復帰の場として選んだのは理にかなっているといえる。なぜなら彼はいずれにせよ発すべき言葉を持っていないからだ。毎日新聞で彼は次のように答えている:「県民の皆様に心身両面で苦労していただいていることに改めて深くおわびしたい」(引用出典:http://mainichi.jp/select/biz/news/20110412k0000m040058000c.html)。

清水社長はそれ以上に言葉を発することは無かった。彼は日本中の人々や特に福島県民、そして国際社会が抱える無数の疑問に答えを提供せず、この数週間どのように過ごしたかについて釈明するにとどまった。東電は破損した原発で何が本当に起きているのかについて企業をあげて沈黙を守っている。情報があったとしても、それは国民に常にためらいがちにしか明かされないのだ。

失望と抑圧

この虚報体制は構造的な問題である。東電という原子力エネルギーの巨人はその銀行的な振る舞いで日本では悪名高い。都合の悪い問題は軽視され、事故は頻発する。東電グループは何年にも渡って事故に関する情報を抑圧してきた。これに加えて、統計や計測のデータを操作し、環境に関する報告書を改ざんし、安全確認の結果報告は過度に楽観的だったといわれる。

これが文字通り東電の中で人生を過ごしてきた清水の世界だ。彼の父も東電に務めた。1968年に名門慶応大学を修了し、22歳の時に経済学を修了してから東電に入社した。80年代初頭には福島第二原発の管理を任される職務についた。この時から彼の東電におけるスピーディーな出世街道が始まった。

清水は経営のプロであり、原子力エネルギーの熱心な推進者、そしてオフィスでフィットネスを行うほどのワーカホリックとして知られている。企業内ではコストカッターと呼ばれており、東電の制服の発注先を日本から中国に移したのも資材調達部門の長であった彼の判断だった。清水は出世を続け、2008年には柏崎刈羽原発での事故の後の経営陣の失職に伴って東電グループのトップに立った。

理想と現実

清水が社長になることによって東電全体の透明性と自浄能力が向上するという期待は膨れ上がっていた。というのも清水は東電の広報部門の長として働いたこともあり、また最近までは日本広報学会の会長を務めていたからだ。「広報は企業の生存にとって重要である」という信条を宣言したこともある。

しかしこうした理想論と現実の間には大きな溝がある。

清水が開始した企業改革は何の効果も発することなく消え去った。東電内の官僚体質の怠惰さ、決定までの遅さ、そして不透明な社内構造(訳注:指揮系統など)といった特徴が改められることはなかった。

月曜の福島県庁への訪問は清水が原発周辺の被災地に初めて足を運んだ機会となり、震災後では今回を含めて二回しか公にその姿を現していない。どうやら企業広報の理念は実現できていないようだ。

そして清水は更にミスを犯した。それは彼が、被災者ではなく県庁に謝罪を表明したことだ。佐藤雄平福島県知事は清水の訪問を拒絶した(そしてこれは2度目のことである)。清水は佐藤知事の秘書に名刺を渡す事しか出来なかった。この恥辱の光景はいかに東電のリーダーが日本の世論のなかで信頼を失ったかを示している。

「彼は何をしにきたんだ?(※独訳文)」と福島県庁の職員が聞き返したと言われる。「彼は東京に残って東電の壊れた原発の緊急処置のために時間を割いた方がいいんじゃないのか(※独訳文)」また清水は原子力安全委員会の広報担当からも手厳しく批判されている:「清水氏はまず原子炉の現状に関する情報と原発の未来への見通しを提示することによって、被災者の方々に誠意を見せるべきだ。(※独訳文)」

被災者が求めているのは薄っぺらい釈明の言葉ではなく、説明である。

震災発生時から情報伝達のミスが続く

しかし本当に問題だったのは、清水が震災後に公の場に初めて登場したタイミングだった。3月11日午後15時過ぎに津波が福島第一原発を襲った時、清水は大阪地方に出張中だった。翌日彼が東京に戻ると、3号機での爆発のニュースが彼に届いた。

彼が報道会見に現れたのは実に事故発生から24時間が過ぎていた。

3月13日、東北地方を壊滅させた地震が発生してから53時間後、東電の経営陣が千代田区の本社会議室で一同に会し、福島第一原発の惨状について初めて説明を行った。

清水は手元の紙を読み上げながら簡潔な言葉を連ねた。「事態を見守ります、評価します(※独訳文)」という主旨の内容を明らかにふらついた調子で話した。そして彼は事故の責任を自然に押し付けた:「津波に対して適切な準備を行っていたかについては議論の余地がありますが、今回の津波は私たちの予測を遥かに超えるものでした(※独訳文)」。冷静沈着な実行家としての名声を築いてきたはずの66歳の清水は災害の巨大さの前にひれ伏しているように見えた。

「一体どうなっているんだ?」

東電の広報体制は破滅的だ。日本の首相である菅直人ですら不信感を隠さない。彼も福島原発の爆発についてはテレビのニュース報道で知った。「一体どうなっているんだ?」と管は3月15日に東電本社に猛然と怒鳴りにいき、自身を本部長とする災害対策本部を設立した。

清水は対策本部の副本部長に任命された。しかし彼のそこでの成果は2週間に渡って欠席したということが報道されたことだけである。危機管理の業務は臨時的に勝俣恒久副本部長が担当している。後日、清水は一時的な病気によって職務遂行ができなくなっていたと言われた。東電の公式発表によれば、清水は高血圧と目まいに苦しんだという。

東電社内の情報伝達でさえも深刻な問題に直面しているように思われる。東電の三万八千人の社員たちが社長から受け取った原発事故についての告示は短い内部用メモだけだったという。「どうか落ち着きを保って、東電の社員である誇りを忘れないようにしてください(※独訳文)」という内容がメモに書いてあったという。また、東電の社内情報伝達のポリシーは奇妙なエピソードをも生んでいる。東電の広報担当がワシントン・ポスト紙に社長を最近見かけたかと聞かれた際に「確認します。」と答えたという。

多くの政治家、経営者やジャーナリストにとって、清水の辞任は不可避のものとして考えられている。西岡武夫参院議長は清水の長い不在について「極めておかしいというより、けしからんことだと思う(引用出典:http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110324/plc11032422110024-n1.htm)」と述べている。しかし東電によれば現社長を更迭する予定はないという。

毎日新聞は首を失った企業の行き先を失った社員たちを評して、船が遭難した際に船長に見捨てられた漂流者の集団だと書いている。

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