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青いムーブメント(6)

   6.

 さて八五年である。
 先述のとおり、青生舎はピークを迎える。この年の夏休みに角川文庫から書き下ろし刊行された『元気印大作戦』は、現役中高生を含む青生舎のスタッフたちの手になる、学校変革のためのマニュアルである。のちに“社会派エロマンガ家”として一部に熱狂的なファンを獲得することになる山本夜羽も当時、青生舎のスタッフであり、この本に学校変革の熱血短編を寄稿している。総じて、現実的なんだか非現実的なんだか微妙な、しかし何かやりたくてウズウズしている元気な中高生なら一発でノボセ上がって明日なき暴走を開始させられてしまう、一貫してポップで脳天気なマニュアルである。実際、この本にノックアウトされて、反逆の青春を謳歌したり、空回りしてヒドい目にあったりした中高生は、全国に無数にいるはずである。
 この頃まで青生舎は、全国の“闘う中高生”の総本山であった。青生舎の刊行する本やミニコミは、闘うのはあくまでも中高生自身である、という勢いに満ちていた。しかしこれ以後、青生舎は「子供たち」の不満や悩みを代弁する「理解ある大人たち」のグループへと徐々に変質しはじめる。
 今回初めて気がついたのだが、この年、保坂は三十歳である。計算すればすぐ分かるのだが、私はこれまで漠然と、二十代半ばくらいとイメージしていた。十代半ばの中高生と、同じ目線で運動をやれるのはそれくらいが限界かと感じていたからである。
 青生舎は、役割を終えようとしていた。
 当時その中にいた友人の話によると、ピースボートが草創期のエネルギーを喪失していったのも同じ頃のことのようである。

 「八〇年」的な軽薄短小、クールでドライな時代は八五年にはすっかり終焉し、「九〇年」に至る熱い時代が始まろうとしている。
 世界情勢から云えば、この年、ゴルバチョフが登場している。ペレストロイカ、グラズノスチ、あのソ連が変わり始める。平和・軍縮を唱えるゴルバチョフは、要するにレーガンや中曽根に対比される「善玉」として適役であった。「世界は変わろうとしている」というムードは、運動の高揚の追い風となる。
 「ニュース・ステーション」が始まったのもこの年である。
 それまでニュース番組というのは、アナウンサーがただ原稿を一字一句間違いなく棒読みし、「客観的に」事実を伝えるだけのものだった。アナウンサーが自分の意見を云うなどあり得なかった。現在のNHKのニュースすら、当時の民放のニュースと比べても作り手の主観が入りすぎである。
 「ニュース・ステーション」は革命的だった。
 久米宏は、とことん主観的な報道をした。基本的なスタンスはリベラルで、時に反体制的であったから、保守派は「ニュース・ステーション」を猛攻撃した。
 しかし私は、久米宏は実際には本当の意味で主観的な報道をしていたわけではなかろうと思う。彼は単純に話芸の達人として、つまりエンターテイナーとして、喋っていたのではないだろうか。スタンスがリベラルだったり反体制的だったりしたのは、当時それが最もウケるといういわば職人のカンを働かせた結果にすぎないのではないか。社会が、リベラルなもの、反体制的なものを期待していた。八五年、そういうムードが高まりつつあった。

 八五年は、八三年ころから徐々に盛り上がり始めていたいわゆる“インディーズ”のブームがピークに達した年でもある。「九〇年」へと向かうさまざまのムーブメントの中で、これは唯一、「八〇年」とかろうじてつながっている動きだったかもしれない。
 有頂天やラフィン・ノーズあたりから始まって、ゼルダ、アンジー、レピッシュ、のちには筋肉少女帯やエレファントカシマシなど、無数の個性的なロックバンドが、八〇年代のインディーズ・ムーブメントの中から登場する。
 その熱の只中で、八五年四月、ブルーハーツが結成されている。

 早稲田大学で見津毅が「ピリオド」を結成したのも八五年である。
 彼がそもそも活動に目覚めたのも、八二年の反核運動の頃だった。当時彼は早大系列の高校に通っていた。文化祭に筑紫哲也だか粉川哲夫だか、そのころ人気のあった左翼文化人を招いてイベントを主催したと聞いたことがある。
 ピリオドは、青生舎やピースボートと同質の、新しい学生運動だった。目新しくて、派手なパフォーマンスをことさらに追求した。被差別者・被抑圧者への原罪意識をもって滅私奉公するような同世代の左翼学生運動主流の感性を、見津はおそらく単に理解できなかったのだと思う。見津を動かしていたのは、主として要するにヒーロー願望だった。“反逆のヒーロー”になれば女にモテる、という下心もあった。
 もっとも客観的には、あまりカッコいいとは云えないようであった。今の言葉で云えば、本人は「イケてる」つもりでいたらしいが、ズレていた。これからはロックだ、と思い「毛沢東ブギウギバンド」なるバンドを結成して自らボーカルをとったが、その歌い回しはひいき目に見ても歌謡曲、はっきり云って演歌だった。「おまえは音楽を政治利用しようとしてるだけだ」と、真剣にロックの可能性を追求している仲間からもよく批判が出たという。そういうちゃんとしたセンスを持ち合わせている仲間が一応、周囲にいて、見津のトンチンカンな暴走にブレーキをかける役目を果たしてくれていたのは救いであろう。彼らは見津のダサさに辟易しながらも、その新しい運動を支えていた。その中には、現在新進の左翼系社会学者として頭角を現している酒井隆史などもいた。

 この年、「ムー」や「トワイライトゾーン」といった雑誌に、麻原彰晃の“空中浮揚写真”が掲載されている。麻原は前年、東京でヨガ道場を開いたばかりだった。

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2006年04月18日 13:06に投稿されたエントリーのページです。

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