神戸百景探訪 作品No.1〜10

旅人のプロフィール

1.みなと(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
みなと

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神戸百景のトップを飾るのは港。川西 英さんの神戸に対する思いが、ここから伝わってきます。川西画には、大丸神戸店、国鉄の高架、川崎重工業の造船所のガントリークレーンなどが描かれています。当時、ガントリークレーンは街のどこからでも見ることができ、神戸らしい風景だったようです。現在、JR神戸線の高架は、ビル群の影に隠れて見ることはできません。それだけ建物が高層になり、ビルの合間に、かつての神戸が点在するかのようになりました。

撮影場所
中央区北野町2(撮影:2010/2/27)
大丸神戸店を正面にみている川西画は、おそらくトアロード山手からの俯瞰(ふかん)でしょう。現在、山手地区は高層ビルが建ち並び、当時の俯瞰を再現するには、もう少し標高の高い場所からの撮影を強いられます。撮影は、北野の港みはらし台から。

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2.神戸沖(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
神戸沖

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2010年夏、酷暑の続く神戸です。背山には、もくもくと入道雲がはりつき、海、山、雲、空の対照的なコントラストに目を奪われます。撮影当日も気温35℃を超える中、疾走する遊覧船のデッキは気持ちの良いものです。中突堤中央ターミナル「かもめりあ」を出発する観光船には、冷房が完備されています。ほとんどの乗船客が、船内から見学されている中、写真の親子は、海を見つめながら、何を思っているのでしょうか。時代が変わっても、世代は違っても、神戸の情景は変わらないようです。

撮影場所
中央区(神戸港)(撮影:2010/7/27)
「かもめりあ」から出発する観光船「ロイヤル プリンセス号」に乗船。「すぐに出発します!」と連呼していた係員さんに誘導されてしまいました。いい写真が撮れたので、乗船料金の1,000円も惜しくありませんでした。

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3.観光団上陸(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
観光団上陸

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この当時、神戸に来航していた外国客船の中から、川西画の船影と似た船を探したところ、「クイーンエリザベス2世号」などを所有するCunard Line社の「カロニア号」であるということが分かりました。この船が「カロニア号」であれば、入港記録などを調べることにより、川西 英さんがスケッチされた日も分かるかもしれないと思い、当時の航海スケジュールを入手。これによると「カロニア号」は、1954(昭和29)年3月、15年ぶりの外国客船として神戸港に入港しています。1967(昭和42)年まで、ほぼ毎年、計13回、神戸に寄港しています。このことから、スケッチの時期は、第1期(1952〜1953年)のものではないと判明しました。第2期(1961年1〜3月)の入港記録を調べてみると、「Great World Cruise」の途中、神戸には1961(昭和36)年4月3日に入港。出港は4月5日。この航海記録からすると、川西 英さんは、実際には4月に入ってもスケッチされていたことになります。はたして、この船は「カロニア号」でしょうか。それともスケッチの期間が実際とは違うのでしょうか?真相は謎です。

撮影場所
中央区新港町 新港第4突堤(4Q2バース)(撮影:2010/8/1)
新港第4突堤の神戸ポートターミナルとして現存しています。現在、神戸港で外国航路のクルーズ客船が停泊するのは、神戸ポートターミナルと中突堤旅客ターミナルの2カ所。水深12mの岸壁などがある神戸ポートターミナルのほうが、より大型の客船に対応できるようになっています。当時、「カロニア号」は、4Q1(新港第4突堤Q1バース)に着岸しています。写真は、その面影が残っている4Q2で撮影しています。

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4.元町歳暮(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
元町歳暮

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1946(昭和21)年、戦後の焼け野原に戦闘機のジュラルミンを外装に使用して、元町通3丁目に誕生したのがジュラルミン街です。神戸凮月堂、奈良山洋服店、本高砂屋など、神戸の老舗として今も健在です。とくに凮月堂さんのゴーフル、知名度は全国区ですね。なかでも「神戸六景ミニゴーフル」は、川西 英さんの三男・祐三郎さんによる風景版画を原画にしたミニ缶で、神戸地区だけの限定商品だそうです。ぜひ、これも全国区になってほしいと思います。私もいくつか購入していますので、ブログのほうでご紹介したいと思います。

撮影場所
中央区元町通3丁目(撮影:2009/12/13)
川西画には、特徴のある商店が描かれていません。100枚近い昔の写真を使って、いろいろな角度から調査しましたが、特定するには至りませんでした。そこで、元町商店街と言ったら、私ならここを撮影すると思った場所にしました。昔の写真を見ても、このあたりがいちばんよく撮影されています。数十年たった時に、この写真も平成の時代の百景になっているのではないでしょうか。

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5.元町ネオン(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
元町ネオン

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商店街のゲートが改修された日、商店街にアーケードが完成した日など、川西 英さんがスケッチされた頃は、ちょうど元町商店街の風景がころころと変わった時期でもありました。そのため、古い写真を見ても、変化の多い商店街入り口の風景に、撮影ポイントを断定できないままでした。撮影は、[1]西から東、商店街の内側から大丸側を眺めているもの。[2]東から西、大丸側から商店街を眺めているもの。この2通りで行いました。決め手としたのが、アーケード入り口の時計です。元町在住の方に取材すると「時計は商店街の入り口に確かにあった。それも大丸側から見たところにあった」という答えがほとんどでした。1975(昭和50)年頃の写真でも、大丸前の歩行者天国から時計を確認することができました。ところが、ここに盲点がありました。どうしてかというと、時計は裏側から見ることもできたのです。川西画がスケッチされた1961(昭和36)年頃は、元町商店街にアーケードが完成していない時期がありました。青空天井です。

撮影場所
中央区元町通1(撮影:2009/9/8)
決め手になった写真を、写真家の井川宏之さんから見せていただきました。その写真では、入り口のネオン広告は富士フイルムのもので、東面(大丸側)には、大きくカタカナで「フジカラー」と、西面(商店街側)には、左上に小さく英字で「FUJI FILM」と書かれています。川西画を見ると、文字は左上に小さく描かれています。また、画の右には♪マークのネオンが見えます。商店街入り口の南側には、当時から国際楽器さんがありました。ネオンの装飾と道路の位置関係など、総合的に判断して、商店街側からのスケッチであろうと判断しました。

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6.布引水源池(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
布引水源池

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樹木により、ほとんどの景色が失われています。冬場には枝木の隙間から、少しだけ布引ダムを確認することができますが、立ち止まってよく見ないと気づかないほどです。私もこの場所を特定するのに、再度山ドライブウェイを何往復したことか。川西 英さんの頃は、ドライブウェイのいろいろな場所からダムを確認できたと思いますが、現在、ダムが確認できる場所は、ここより他になさそうです。木々が成長して、景観が変わってしまっていることで、時代の隔たりを感じました。川西画にある赤い屋根の建物は、現存していない神戸カントリークラブです。

撮影場所
中央区葺合町 二本松バス停付近(撮影:2010/2/23)
二本松バス停付近のフェンス越しに見るダム湖が、まさに川西画と同じ構図になります。木を切るわけにはいきませんが、ここからの景観が再び確保できれば、どんなにすばらしいかと思いました。再度山ドライブウェイからダム湖を一望できる、絶好のビューポイントにもなります。休日には、猩々池方面から城山、新神戸方面へと抜けるハイカーが、ここを通っていました。

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7.修法ヶ原(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
修法ヶ原

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川西画の時代から半世紀が経過。成長した木々に阻まれて、百景の調査も難航することがたびたびありました。それとは逆に、この修法ケ原では、1本の松が、川西 英さんの空間と私たちの空間をつないでくれました。50年経っても松は、そこにありました。

撮影場所
北区山田町下谷上(撮影:2009/5/11)
現在、ボート営業は休止されていますが、ボートハウスは当時の面影を残しています。1937(昭和12)年に開園した再度公園は、修法ケ原池を中心に整備された自然公園で、「日本の名松百選」にも選ばれた見事なアカマツの林があります。

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8.修法ヶ原外人墓地(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
修法ヶ原外人墓地

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神戸市立外国人墓地へは普段、立ち入ることはできませんが、神戸市が年に数回、一般公開しています。私も写真を撮るために、参加の申し込みをしました。写真撮影は、決められた場所以外認められていないとのことで、川西画の場所がその範囲内かどうか、当日まで案じていました。ところが、川西画は墓地内の小野浜地区という場所で、撮影OK。スムーズに同じ構図で撮ることができました。

撮影場所
北区山田町下谷上 神戸市立外国人墓地(撮影:2009/8/23)
1961(昭和36)年、それまで小野浜・春日野にあった両外国人墓地の移転統合が、再度公園内で完了しました。現在、この墓地には、明治以来日本と関わりを持った外国人など、61カ国、2,770柱が埋葬され、異国での永遠の眠りについています。

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9.教育植物園(制作または加筆:1961.1〜1961.3)
教育植物園

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年配の方にたずねても、教育植物園については分からないとの返事が多かったです。実際に現地を訪れると、どこが植物園だったのか見当もつかないほどです。洞川に近い正門から入ると、すぐに雑草に囲まれた中を歩く羽目に。いろいろなポイントを撮影して回りましたが、唯一手がかりとしたのが、土地の傾斜と、一部残っている石組みでした。ここには、川西画の面影はほとんど残っていません。

撮影場所
北区山田町下谷上(森林植物園内の学習の森、洞川キャンプ場そば)(撮影:2010/6/24)
教育植物園としては現存していません。1983(昭和58)年、「教育植物園」は「学習の森」と名前を変えて、隣接する「森林植物園」と合わせて一緒になりました。

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10.森林植物園(制作:1952.1.1〜1953.2.20)
森林植物園

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川西画は、芝生広場あたりから長谷池を眺めているようです。その後、池の周辺も整備されたため、樹木の植栽が変っています。撮影はコナラ広場からですが、池を眺める人々の様子は、昔も今も変わらないように思います。

撮影場所
北区山田町上谷上長尾1-2(撮影:2009/8/16)
1940(昭和15)年につくられ、1957(昭和32)年、六甲山上に正式に開園した総面積142.6haという広大な樹木植物園です。自然に近い形での植栽構想をもとに、世界各地の樹木約1,200種が、それぞれの原産地別にゾーン分けして植栽されています。

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