1971年12月 共同軍事訓練 その6・植垣康博の恋 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

 共同軍事訓練は、水筒問題や遠山批判など、重苦しい話が続いた。だが、そんな中、実はもうひとつの物語が進行していた。主役は植垣康博である。植垣は革命左派の大槻節子(山岳ベースで死亡)に恋心をいだいてしまう。植垣の「兵士たちの連合赤軍」から、大槻節子に関する部分を抜粋する。


■12月2日 「どこのかわい子ちゃんなんだ」

 植垣は革命左派のメンバーを迎えに行った。


 私は、彼女たちと一緒に山道を上り始めたが、頑張る、頑張るという彼女たちが、どれほどのものか試してやれという意地悪な気持ちになり、少し早いピッチで上った。

 はじめは2人ともしっかりついてきた。しばらくすると杉崎さんが遅れだした。大槻さんは、私の後ろを歩いていて、振り返る私をまだまだ大丈夫という顔をして見つめなおした。


 私は、大槻さんを最初に見たとき、「どこのかわい子ちゃんなんだ、来る場所を間違えたんじゃないか」という印象を受けた。しかし、坂東氏たちでさえあごを出して何度もへばったこの急な坂道を、へばらずに私の後についてくるのを見て、その印象を全面的に改めなければならないと思った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 私はリュックをそこにおろし、2人をそこに待たせて、あとから来る人たちを迎えに行こうとした。すると、大槻さんが、「私も行く」といいてリュックを下ろした。私が、驚いて、「また今の坂道を登って来るんだよ」というと、大槻さんは笑いながら、「大丈夫」と答えた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


■12月5日「久しぶりに活動していることが楽しくなってきた」
 この日、腹筋運動を行ったとき、植垣は大槻とペアを組んだ。


 私の腹筋運動のときは、大槻さんが私の足の上に座ったが、どうも大槻さんのお尻の柔らかな感触が直に伝わってきて、なんとも妙な気分にさせられた。それまでは、他党の女性ということもあって、私は、大槻さんの体力ややる気に感心はしたものの、意識するということはなかった。しかし、このときから、次第に彼女を意識するようになってきて、久しぶりに活動していることが楽しくなってきた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 なんと、大槻を意識するようになったのは、「大槻さんの体力ややる気に感心」したからではなくて「大槻さんのお尻の柔らかな感触」だというのか(笑)


 午後も2人で蒔き割りをするが、うす暗くなって2人だけになっても、蒔き割りを続け、楽しくおしゃべりを続けていた。小屋の中では、森が革命左派を批判していたときである。


 小屋に戻ると、青砥と植垣が自己批判させられる。青砥は革命左派の女性との関係で迷惑をかけた、というもので、植垣は丹沢ベースでの痴漢行為 であった。植垣は地方殲滅戦の消耗を理由に苦しい言い訳をしたが、このとき大槻は「玉振さんのこともあるんじゃないですか」と批判し、植垣は「ウーン、それもあるけど・・・」と下を向いてしまった。


■12月6日「困ったことになった」
 実射訓練の日、見張り台までの雪かきを植垣と大槻が行った。


 山道から見張り台までは急斜面になっていた。大槻さんが先に登ったが、すべって上れなかったので、私がしたから大槻さんのお尻を押しながら登った。見張り台に突くと、大槻さんはボーッとして突っ立ったままでいた。それを見て、私は、大槻さんがすきになってしまい、困ったことになったと思った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

 さて、問題の夜、植垣は大槻の隣に寝る。


 空いている寝袋は、大槻さんの隣のものしかなかった。危ないなあと思いながらそれに入ったが、前の晩はほとんど徹夜だったので、すぐ眠ってしまった。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)

■12月7日「気になってもう寝られなかった」


 どれほどたったであろうか、朝方と思われる頃、体が圧迫される感じがして眼が覚めた。まだ真っ暗だった。その圧迫は、大槻さんが体を私にくっつけるようにして寝ていたことによるもので、耳もとでは大槻さんの寝息が聞こえた。私は気になってもう寝られなかった。

 そっと大槻さんの寝袋に手をいれ、大槻さんの顔に触った。大槻さんの寝息はピタッとやんだが、大槻さんは体を離そうとせず、じっとしていた。私は、大槻さんの耳や鼻や唇に触り、そっと接吻した。唇を離してから、首筋を撫でた。汗ばんだようにしっとりしていた。胸に手をやると、大槻さんの手があったので、その手を握った。大槻さんは、手を握られたままなにもしなかった。私は再び接吻しそのままでいた。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 なにもここまで生々しく書かなくても(笑)。青砥が革命左派の女性と関係した事を自己批判させられ、植垣も痴漢問題で自己批判させられたばかりのときである。その直後に、同じ行為に及ぶとは大胆不敵というかなんというか・・・。


 そのうち他の人が起きたため、大槻も起きてストーブに火をつけ、ストーブの火をじっとみていた。植垣は謝ろうとするが、なかなか言い出せないままでいた。大槻も怒った表情のまま何か言いたそうだった。そのうち革命左派のメンバーが帰る時間になると、植垣たち赤軍派メンバーは途中まで送って行った。


 私は、このまま分かれてしまうのかと思うと、なんともやりきれなかった。ところが、第三の小屋について、そこの沢でみなが顔を洗ったりしたとき、顔を洗ってきた大槻さんが、それまでの怒ったような顔とは全く違ったすばらしい表情をして、私のほうに来た。そして「冷たい水ねえ」といった。私は、この大槻さんの変化に驚いてしまったが、大槻さんのニコニコした顔を見て、私もうれしくなり、「さっぱりしただろう」と答えた。

 大槻さんは、両手を広げたり、体をくるっと回したりして、いかにも楽しそうだった。私はどうしてそのように変わってしまったのかわからないまま、大槻さんが私に怒っているわけではないことを感じ、体の中から新しい力がわいてくるような気持ちになった。


 私は、大槻さんと2人だけで会う方法を考え、その日を楽しみにしながら、他党派の大槻さんとの関係は困難なものになるだろうなと思った。
(植垣康博・「兵士たちの連合赤軍」)


 大槻節子は後に死亡するから植垣にとってつらい思い出のはずである。連合赤軍メンバーの手記を読んでいると重たい気持ちになることが多いが、植垣の「兵士たちの連合赤軍」は明るくあっけらかんとしていて、救われた気持ちになる。


 これは前書きに書いてある通り、「自分の歩みに対する反省や総括は極力避け、その判断を読者にゆだねることにしました」からだろう。その目論見は成功している。


 さて、これからいよいよ山岳ベースでのリンチ殺人事件に入っていくのだが、新聞記事がまったくないので、手記を頼りにまとめていくつもりである。


 ここから先は、森恒夫の脳内理論を知っておいたほうが面白いので、まず、この共同軍事訓練で構築された理論をまとめてみることにする。なにしろ連合赤軍の山岳ベースでは、「共産主義化」が猛威をふるうのである。



1971年12月 共同軍事訓練 その1・予習編

1971年12月 共同軍事訓練 その2・水筒問題

1971年12月 共同軍事訓練 その3・革命左派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その4・赤軍派による遠山批判

1971年12月 共同軍事訓練 その5・最終日「諸君!この日を忘れるな!」

1971年12月 共同軍事訓練 その6・植垣康博の恋