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ウメサオタダオ展に行って、ちょっと考えたこと

倉下忠憲
先日、国立民族学博物館(民博)で行われている「ウメサオタダオ展」に行ってきました。数々の展示物や、梅棹先生の言葉に触れたことで、改めて「知的生産の技術」についていろいろと思いを巡らせることができました。

今回は、それについて少し書いてみたいと思います。

ITと知的生産の技術

展示物には、残された手書きノートや情報カードがありました。もちろん、それらは全体のごく一部でしょう。それでも見るだけでその後ろにある「知的豊かさ」を感じさせ、「すごいなぁ」と思わせてくれます。その反面、果たして自分にここまでのことができるだろうか、という思いが生まれてくることも確かです。

実際、私も一時期「カード」を使った情報管理システムを作ろうかと考えていましたが、物理的スペースにおける制約の前に断念した経験があります。手狭な家だと、本を置いておくだけで一杯一杯な状況です。しかしながら、現状はEvernoteがそのシステムの代わりになっています。使い始めてまだ2〜3年ほどしか経っていませんが、それでもかなりの量の「ノート」が蓄積されています。

ポイントは、このシステムを導入するための敷居がとても低いことです。二万枚の情報カードを発注しなくても、アカウント登録すれば即始められます。カードの保管場所について家族間協議を行う必要もありません。

Evernoteに限ったことではありませんが、ITが「知的生産の技術」をより身近に、手の届きやすい存在にしていることは間違いないでしょう。これは各種のツール、クラウドシステム、そしてiPadのような端末がそれぞれに補完的に影響しあって実現していることです。

デジタル適応

ただし、情報カード的にEvernoteを使えるからといって、まるっきり同じに運用できるというわけではありません。デジタルにはデジタルの適応が必要です。

文章を書くためのツールが、原稿用紙からワードプロセッサーに変わったことで、文章を書くプロセスそのものも変化しました。

修正・追記・コピーといった編集作業が手軽に行えるようになったため、一行目からじっくり書いていくというスタイルの必要性は低下し、「とりあえず書けるところから書く」という形式で進められているのがほとんどでしょう。

日本語を書くという行為は同じでも、全体を構築していくためのプロセスは変化してしまったわけです。

同じことが、情報を扱うための技術:知的生産の技術にも言えるでしょう。デジタルツールをいかに知的生産において使うのかというメソッドは、まだ完璧に確立されているわけではありません。逆に言えば、それが今後の一つの大きな課題になりそうです。

ソーシャルメディア時代と知的生産の技術

『知的生産の技術』には次のような文章があります。

知的活動が、いちじるしく生産的な意味をもちつつあるのが現代なのである。知的生産ということばは、いささか耳なれないことばだが、これもそのような時代のうごきを反映しようとしたものとして、うけとっていただきたい。また、人間の知的活動を、教養としてではなく、積極的な社会参加のしかたとしてとらえようというところに、この「知的生産の技術」というかんがえかたの意味もあるのではないだろうか。

知的活動=社会参加のしかた、という構図から思い浮かぶのがソーシャルメディアです。ソーシャルメディアの定義はさまざまありそうですが、個人が社会的関係を持ちうるもの、つまり社会参加として捉えることができるでしょう。

そして、ソーシャルメディアで行われているのは人と人のつながりにおける情報のやりとりです。それはアウトプットかもしれませんし、キュレーションかもしれません。何にせよ人間の知的活動=社会参加の構図が立ち現れているように見えます。

例えば、Twitterで一時期「デマ情報の見分け方」といったことが話題になりましたが、こういったことも「情報の扱い方」の一部です。日常生活でTwitterやFacebookを活用するならば、この「情報の扱い方」については最低限知っておく必要があるでしょう。

そういう意味で、学問の研究としての「知的生産の技術」から、情報産業の中での仕事における「知的生産の技術」という変化があり、その後に日常生活での「知的生産の技術」というものが求められる時代になりつつあるのではないかと思います。そして、身近なITツールの存在がそれを助けるものになってくるでしょう。

さいごに

展覧会には、梅棹先生の言葉がいくつか掲げられていました。その中の一つに

人生をあゆんでいくうえで、すべての経験は進歩の材料である

という言葉があります。こう考えられるならばどのような失敗も自分の糧にすることができるでしょう。

しかし私たちは、その経験をいとも簡単に忘れてしまいます。

カードに記録を残すのも、Evernoteにデータを保存することも、全てはそれを「後で見返す」ためです。後で見返し、その経験を想起することができれば、自身の進歩の材料を増やすことができます。

これも広い意味では、人生における「情報の扱い方」と呼べるのかもしれません。
 

▼参考文献:

改めて、現代における「知的生産の技術」について考えるための一冊。

▼今週の一冊:

「ウメサオタダオ展」の展覧会に向かうモノレールの中で読んでいた一冊です。展覧会の中で展示されていた言葉もいくつか入っています。「知的生産の技術」関係の言葉は、私にとってはおなじみのものでしたが、「妻無用論」関係の言葉は楽しめました。

女は、妻であることを必要としない。そして、男もまた夫であることを必要としないのである。

我が家の収入や家事担当のバランスをみると、まさしくこの言葉がぴったりと当てはまります。「妻」だから○○をする、「夫」だから△△をする、という縦割りではなくて、単にお互いが家庭における責任を等しく分担する、そういう家庭の在り方が現代では増えているのではないかと思います。ちなみに、上の文章の初出は1959年らしいです。


▼編集後記:
倉下忠憲
 先週にちょこっと書きましたが、iPad2 を発売日に購入しました。

いまノート系のアプリとかアイデア系のアプリをいろいろと漁っているところです。とりあえず、「まったく新しいツール」であることは間違いないですね。効果的に使えるかどうかは、今のところ未知数ですが・・・。


▼倉下忠憲:
新しい時代に向けて「知的生産」を見つめ直す。R-style主宰。