1971年12月18日 土田邸爆破事件 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)

この事件は連合赤軍とは関係ないが、興味深い出来事なので取り上げてみたい。


■1971年12月18日 土田邸爆破事件

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-12-18 土田邸爆破事件記事   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-12-18 土田邸爆破事件記事

 1971年12月18日、東京・豊島区の警視庁警務部長・土田国保(48才)方で、小包郵便物が爆発し、民子夫人が死亡、13才の四男が重傷を負った。小包は土田警務部長宛に届いた。差出人には、よく知っている人の名前が書かれており、夫人が開封した瞬間、爆発した。


 この日は革命左派の柴野春彦が射殺された上赤塚交番襲撃事件 の1周年の日であった。当然ながら、革命左派や赤軍派が疑われたが、すでに両派とも爆弾闘争から手を引いていた。爆弾闘争はターゲット以外の人を傷つけるからナンセンスと批判し、そのため銃を握ったのである。


 疑問に思われる方もいるかもしれない。赤軍派は森の指示により明治公園爆破事件 で、爆弾を使ったではないか、と。しかし、森の作戦指示は爆弾を「置いてこい」ではなくて、機動隊を狙って「投げつけてこい」だったから、ターゲット以外の人を傷つけないように配慮されていた。


■「ホシをあげろ!」

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連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1971-12-18 朝日 警察関係爆弾事件


 この記事をみればわかるが、当時、警察への爆弾事件が多発していた。少し前までは、せいぜい火炎ビンだったのが、爆弾製造技術が広まっていたのである。


 警察がピリピリしていたところへ、警視庁警務部長が狙われ、夫人が死亡する事件が起きたから、警察は名誉にかけても「ホシをあげろ!」と至上命令が下ったのは当然であった。


■「土田・日石・ピース缶爆弾事件」といわれるわけ
 過去に次のような事件があった。、

 1969年10月24日 新宿区の警視庁第8機動隊庁舎にピース缶爆弾が投げ込まれた。
 1969年11月 1日 港区のアメリカ文化センターにピース缶爆弾が配達された。
 1971年10月18日 港区の日本石油本社ビル地階の郵便局内で小包爆弾が爆発した。


 これらの事件と土田邸爆破事件をひとまとめにして「土田・日石・ピース缶爆弾事件」と呼ばれる。なぜひとまとめにされるかというと、これらの事件は、同じグループの犯行として、容疑者が逮捕・起訴されたからである。


 なお、1971年10月18日の日石郵便局内で小包が爆発したのは、点火スイッチが甘かったため、郵便局内で爆発してしまったが、あて先は警察庁長官、空港公団総裁だった。つまり、土田邸爆破事件と同じ手口だったのである。


■1973年 ついに主犯と仲間を逮捕、そして自供相次ぐ
 話は1973年に飛ぶ。

 1973年3月に主犯と思われる者が逮捕されると、その友人たちがイモづる式に共犯者として逮捕され、最終的に逮捕者は18名になった。そして1人また1人と自供していった。


(1973年3月14日 朝日夕刊 )

連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-1973-03-14 土田邸爆破事件犯人自供


 自供によれば18名は、材料調達係、爆弾製造係、運転係、実行係など、役割が細分化され、たすきリレーならぬ爆弾リレーで、犯行に及んだということだった。自供内容は、つなぎあわせるとつじつまが合っていたから、マスコミを通じて自供を知ったわれわれは、彼らが犯人であることを信じて疑わなかった。


 ところが、彼らはやっていなかった。当局の脅しに屈服し、虚偽の自供をさせられたのである。彼らは自供段階で、現場の見取り図や爆弾の構造図などを画いていた。犯人しか知りえない「秘密の暴露」にあたる決定的証拠である。しかし、これは取調官の「ヒント」により「正解」になるまで描き直したものだった。


 彼らの手記によると、取調べのやり方は、相当悪辣なものだったようだ。取調べの苦痛から逃れるために、彼らは屈服し、いったん自供した後は、犯人を演じ続けるしかなかった。ただし、自分の「自供」が、仲間を共犯にしてしまうという負い目を感じ続けていた。


■「僕たちは犯人じゃない!」

 裁判で顔を合わせた彼らは、互いに挨拶を交わした。「○○さんですか、はじめまして」という挨拶もあったほどである。やはり友人を裏切れないと思った彼らは、裁判で自供を覆し、無実を主張したのである。


 裁判が進む過程で、弁護士がアリバイを発見した。犯行当時、運転免許の試験を受けていた者がいたのである。検察にとってはまずいことになった。自供調書が爆弾リレーになっているので、中間の1人にアリバイがあると、前後合わせて3人が同じウソの自供を行ったことになってしまう。あわてて検察は事件のシナリオを取り繕った。


 こんなことを繰り返すうちに、誰の目から見ても、もはや彼らを犯人とするには無理があり、検察の暴走であることは明らかになっていった。しかし最後まで検察は往生際が悪かった。


 とどめは、「警視庁機動隊庁舎ピース缶爆弾未遂事件」の真犯人が現れ、「私の犯行である」と証言したことだった。自供調書は、根底から否定されてしまったのである。


 当局は18人の役割分担と犯行手順を綿密に取り決めたシナリオを作っていた。そしてシナリオにそって取調官が「自供」に追い込んだのである。彼らが無実であることを一番良く知っていたのは、他ならぬ当局だった。


 裁判官の皆さん、皆さんの前にある問題はこうです。真の犯罪者は誰か。どっちの席に座っている者が犯罪者か。被告席に座っている者か、それとも検察官の席に座っている者か。
(高沢皓司・「フレームアップ―土田・日石・ピース缶事件の真相」 後藤昌次郎弁護士)


 判決が無罪なのは当然だった。だが10年近く拘束された若者たちの失った時間は戻らない。警察・検察の責任も問われなかった。犯人扱いされた者たちの損害賠償請求もほぼ全て却下された。そして真犯人の現れた1件を除いて、事件は解決されないまま時効を迎えてしまったのである。


 これは「冤罪」ではなく、「フレームアップ」(でっちあげ)である。この事件は、18人の仲間がいたから、裁判の段になって、闘争のモチベーションを回復することができた。だが1人では泣き寝入りするしかなかっただろう。


 実は、この事件でも1人だけ、分離公判で有罪判決を受け、そのまま服役した者がいた。再審請求をすれば逆転無罪は確実だったが、なぜか彼は再審請求をしなかったので前科者のままである。


■「われわれが現役の頃はこんなことはなかった」
 話は変わるが、2010年9月、大阪地検特捜部の主任検事が、証拠品として押収したフロッピーディスク内のデータの日付を改ざんして逮捕されるという事件が起こった。検察の信頼が失墜したと大々的に報じられた。


 テレビでは連日のように元検事が登場してコメントしていた。そして彼らは必ず、「われわれが現役の頃はこんなことはなかった」 とつけ加えた。この言葉を聞いて、なおさら検察は信用できないと思った人は多いだろう(笑)。こんなことはずっと昔から続いている組織体質である。


 調査を開始した時点では、真摯に調査をしていたはずだ。ところが、容疑者を逮捕した直後からモードチェンジが起こる。あとは何が何でも起訴から有罪へと一本道を突進するのである。たとえ、誤りに気づいたとしても引き返すことができない。この事件も検察内部で誤りを訴えた検事がいたそうだが無視されている。


 モードチェンジしてしまう組織体質こそ本質の問題なのだが、すでに組織に信用がなくなっているので、取調べの可視化とか、そういう方向で改善をはかろうとする動きになっている。


 話をもとに戻す。


■無実の者がなぜ「自白」をするのか?

 誰もが感じる疑問は、「無実の者がなぜ自白をするのか?」 ということだ。


 観客のいない取調室という密室空間では、取調官と被疑者は対等な関係ではない。取調時間、トイレ、食事、水、病気の治療・・・すべては取調官の胸先三寸なのである。


 取調官は、手練手管を使って被疑者を責め立てる。しかも、取調官はチームプレーだからたまらない。取調官は、事件の真実を「取調べ」する役割ではなく、「自白させる」ことだけが任務であり業務成果なのである。


 こうしたハンデキャップマッチが本当に「取調べ」といえるのだろうか?
 2006年4月13日付の朝日新聞の朝刊記事によれば、警察としても「取調べ」はたてまえで、「自白の強要」こそが目的であると考えていることは明らかだ。


連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事)-2006-04-13 朝日 取調べマニュアル記事

 被疑者は目の前の苦しみから逃れるために「虚偽の自白」をしてしまうものだ。それは必ず長時間の「取調べ」において起こる。いったん自白してしまうと、より過酷に責め立てられるのを恐れて、自主的に犯人を演じ続けるしかなくなってしまうそうである。


 どこかで聞いたような話だと思ったら、取調室で行われていることは、この事件の直後に起こる連合赤軍の山岳ベースの「総括」とそっくりな構図なのであった。


■ 土田邸爆破事件 40年目の真実 (追記)


土田邸爆破事件 「戦旗派が実行」 関係者が書籍出版(共同通信)


 東京都豊島区の土田国保・警視庁警務部長(当時)宅で71年12月、小包が爆発し妻が死亡した土田邸爆破事件は、過激派の戦旗派元活動家の男らが起こしたとの内容の書籍を、同派関係者が28日までに出版した。

 男は共同通信の取材に「リーダーとして関与した」と説明、同年10月に日本石油本社ビル地下郵便局で小包が爆発した日石事件も「自分たちが実行した」と話した。

 両事件では、赤軍派系活動家とされた11人が73年に殺人罪などで起訴されたが、85年12月までに全員の無罪が確定した。警視庁幹部は「警察としては結論が出ている事件で再検証する考えはない」としている。
(2011年5月28日共同通信)


 なんという偶然だろうか。40年も前のこの事件について掲載して間もなく、上記のニュースが配信された。 本のタイトルは 「40年目の真実 日石・土田爆弾事件」(中島修)である。


 元戦旗派(ブントが分裂したうちの一派)の活動家が、自分たちの犯行であると認めたようだ。また、戦旗派の裏事情や犯行の状況まで明らかにされている。そしてこれまた偶然にも、元戦旗派のリーダー・荒岱介は5月3日に亡くなったばかりだった。


 それにしても、時効になってから真犯人が現れたとしても、何も責任を問えないのは空しいばかりである。