前田家藏傳爲相筆本閑居友を見て

  • 岡田希雄
  • 歴史と國文學 23(4): 11-24 (1940)

前田侯爵家の傳爲相筆閑居友上下二帖が、尊經閣叢刊戊寅歳配本として、本年四月二十日附けで複製せられた。たま〳〵先日藤井乙男先生の御宅へ參上したところ、「見たか」と云つて本を見せて下さつた。私が以前〈昭和五年九月の藝文にて〉閑居友と發心集の關係について述べた事があるのを、御記憶に成つて居られたからである。恩借してかヘり、拜見した。今までに刊行せられた諸本と同じく、まことに有難い複製本であり、池田龜鑑氏の執筆せられた綿密な解説〈五十五頁分〉があり、さらに諸本との校異表〈五十頁分〉も添うて居る。何れも勞作であり、此の解説と校異表とありて、此の貴重なる複製本は、いよ〳〵丸其の價値を増大せしめて居る。さて此の本を見たについて感じた事どもを記して、かねてより請求せられて居る本誌の埋草的原稿とする次第である。池田氏の解説を批判する事もあるが諒恕せられたい。

本書は何時頃よりか知らぬが、慈鎭和尚の作であると傳へられて來たが、烱眼なる契沖は、丁度、同じ樣に慈鎭作と傳へられて來た色葉和難抄をば、然に非ずと否定した如くに、本書も亦慈鎭の作で無い事を明言した。其れは本書の著者は渡宋僧である事が判るからであり、的確な論である。著者の渡宋の事は、木版本では「もろこしにまかりて侍しにも云々」〈上卷一六オ〉とあるものだけしか指摘できないのだが、他にも

もろこしに侍しと人のかたり侍しは云々

もろこしに侍しときゝ侍しは云々

と云ふ類の話句が、下卷〈一五オウ/一七オ〉、に三箇所見え、自分はこれらをば文意上必ず「もろこしに侍りしとき聞き侍りしは(かたり侍りしは)」で無ければならぬものと考へ、これらをも作者の渡宋を示す語句としてかつて擧げたのであるが、前田家本を見るとまさしく、「もろこしに侍し時云々」と云ふ風に、三箇所ともに「時」字を明記して居るのを知つたのである。なほ上卷〈三二ウ〉

されば、もろこしには、いかなるものゝひめ君も、くひものなど、しどけなげにくひちらしなどはゆめ〳〵せず、よにうたてき事になん申侍し也、この國はいかにならはしたりける事や覽、はやくせになりにたれば、あらためがたかるべし

と、慨歎して居るのも、渡宋を證明する材料に成るだらう。〈これも以前に擧示したのである〉

慈鎭説を否定した契沖は、松尾の慶政上人の作であらうとした。いかにも本書の作者が、下卷末で

西山のみねの方丈の草のいほりにてしるしおはりぬる

と自記し居るから、慶政に擬する事も可能に成る。だが積極的な證據は無いのであり、逆に池田氏が指摘せられた通り、反證さへ出て來さうである。即ち慶政は嘉定十年丁丑〈わが建保五年〉には支那泉州にて、南番文字と云ふを寫し居り、其の後間も無く歸朝したかして、建保七年一月には、續本朝往生傳や拾遺往生傳を、西峯の方丈にて寫して居るのである。ところが閑居友の作者は、承久四年三月頃を基準としたらしいが、「此あやしの山の中」に身を隱して「八とせの秋おをくりきぬ」と云つて居る〈上九ウ〉承久四年より八年前と云へば、建保二年と成る。だから閑居友の作者を慶政とすると、建保二年頃から「あやしの山の中」に隱棲して居ると云ふのと合はない。故に、これらの記事に誤が無いとすれば、慶政を作者とする事は出來ないのである。

慶政説を支持するにも、否定するにも、今少し慶政の傳記を明らかにせなければならないのだが、其れが今のところ困難である。

例へば、本書の作者の生地は、上卷末の記事に「からはしちかき川原」〈爲相本は誤寫して居る〉が作者の「ふるさと」に近かつたと記して居る事により、京の人であつた事が判るから、慶政の生地が他日判明して、京の人であつた事が判れば、本書を慶政に擬する一傍證〈傍證にならぬ場合も無論ある〉揚を得る事に成るし、地方の生れであるとすると、慶政否定の確證と成る。だが此の慶政の生地は今のところ不明である。(此の唐橋近き川原は、九條坊門の賀茂川原であらう。)

慶政は文永五年に歿して居る。建保五年よりは五十一年後である。渡宋僧で渡宋の時の年齡の判明して居る人に就いて云ふと、榮西の初度の入宋は二十八歳の時、俊芿は三十四歳、永平道元は二十四歳であつた。慶政は建保五年に二十五歳であつたと假定すると、七十六歳で歿した事に成り、三十歳であつたとすると八十一歳で歿した事と成り、承久四年は、それ〴〵三十歳、又は三十五歳であつた事に成る。ところで本書に現れた作者の年齡は何歳ぐらゐであつたらうか。明確に書いたものとては無論無いが、名聞を捨て、隱遁生活を讃美するところなど、何うも老人じみた面影が見えるのではあるまいか。三十歳や三十五歳の壯年の僧を想像するのは何うも困難なのではあるまいか。但し是れは全く、現代人としての自分の主觀に過ぎないから、斯う云ふ事は問題と成らぬであらう。

本書の本文としては、寛文二年四月版〈後摺もある〉と續類從中の活版本とが存したのだが、傳爲相筆と云ふ極札ある鎌倉末期の古寫本が、今度複製せられたのであるから、學界としては大變悦ぶべきである。校異表は、前田家所藏の譚玄本、其の他木版本、續類從本、神宮文庫の村井古巖獻納本等との校異を示したもので實に結構である。自分は木版本と爲相本との相異を版本へ記入したのであるが、自分が木版本でいぶかしく思うて居る條――それは多くは無い――を、爲相本にあたつて見た結果「とうとく」〈貴の義、上二二ウ、四二ウ〉「たとひとりたるとても」〈下一一オ〉「かみはそらけあがりて」〈下二五オ〉の校異が漏れて居る事を知つた。即ち爲相本では其れ〴〵「たうとく」「たとひとりたりとても」「かみはそそけあかりて」とあるのである。此の校異表は、假名遣や比較的重要で無いものは取り上げない方針らしく、(假名遣の如きは擧げる必要も無く、又擧げきれるものでは無い、但し、「お」「を」の混同甚しく、助辭の「を」を「お」で示す事の多いのは、注意すべきである)其れは認め得る態度であるが、「とうとく」の例は音韻史的に見て重要であるから、木版本の誤なる事を示して然る可く、「たとひとりたるとても」も爲相時代の語法としては(無論承久四年の語法としても)注意すべきであるから、爲相本では然うは成つて居ない事を、積極的に示してほしい所であつた。「そそけあがりて」に至りは見落しだらう。

前田家本は古寫本だから、木版本よりは無論勝れて居るが、中には惡い所もありて、其れは解説で指摘せられ居る。が其の中で一番大きな錯簡に關する説明が少し不充分であると思ふから左に述べる。其れは上卷眞如法親王傳の所であり、木版本で云へば一丁裏八行の「ことはりにもすぎてわづらひおほ」の下から、三丁表九行の「と侍る事思いでられて」の上までの三頁分に相當するものに於いて、爲相本に錯簡が生じて居る事であつて、譚玄本も此の通りであり、木版本、續類從本、神宮文庫本等は一類で同じ本文であると云ふ。池田氏は、「何故に、このやうな錯簡が生じたかは、今の所不明といふより外はない」と云はれるが、これは實は千慮の一失であつた。

今爲相本を見るに、四丁表より裏への續き、又五丁表より裏への續きは、文章も續いて居り、何ら異状は無いが、四丁裏より五丁表への續き具合は「異代にかへしなど」と、動詞・助動詞の接續は正しいが、文章としては連絡が無い。しかして斯う云ふ事は、三丁裏から四丁表へ續く所に於いても、五丁裏から六丁表へ續く所に於いても云ひ得る事である。だが、此の四丁二頁五丁二頁を、木版本とたゞ比較しさへすれば、爲相本の五丁裏から逆に四丁表へ文章が續き居る事が判るであらう。こゝまで述べて來たら今はも早や冗説する事は不要である。爲相本の四・五の兩丁は綴ぢ誤られて、表裏が逆に成つてしまつたのだ、即ち、今のまゝの丁附では、三丁裏、五丁表裏、四丁表裏、六丁表の順に改めれば、文は完全に續くのであつた。要するに、御物更科日記に見るに似た錯簡が、爲相本にも存するのであるに過ぎない。此の錯簡は前田家で、今の表紙を添へるため改裝する時に生じたものであるかも知れない。

こゝの文に、木版本〈三オ五〉では

この人菩薩の給はざる事なし。汝心ちいさし。………

と成つて居るのがあり、濁點も施してあるが、此の儘では此の文全く意が通せない。然るに爲相本にては「給」字が「行」字と成り居り、

この人菩薩の行はさる事なし、汝心ちいさし。………

とあるのである。是れでこそ意は通じる、こゝは「この人」即ち化人が親王のやり方を難詰して、「菩薩のぎやうる事無し」、菩薩行は然う云ふ事、であつては宜しくない。汝は心が狭小だ、そんな人間の施物は受けないぞと拒絶した事を云つて居るのである。解説が「この人菩薩の行はざる事なし」と濁點を施し、「おこなはざる事」と動詞の否定に讀んだのは誤であつた。菩薩行と云ふ名詞である。

因みに云ふ、眞如法親王が渡天の途中羅越國で、虎害のため遷化遊ばされたと云ふ事は、廣く傳へられて居るが、正史には見えない事で、學者は俗説として一蹴して居る。斯う云ふ俗説が何時頃より行はれ出したか知らぬが、大日本史東大寺凝然の著述を擧げて居る。しかし凝然は仁治元年の出生にして、仁治元年は閑居友の出來た承久四年よりは十八年も後である。虎害云々の事は親王の傳にも書いてないから特に記すと特記して居るのを見ると、本書の如きは虎害説を記したものとしては古い方であるかも知れない。

なほ爲相本の本文について氣づいた事を述べると左の如き事がある。

  • ○下卷十一裏、例の長谷寺月詣女の條に「この事あやしむべき人にはあらで」とある「あやしむ」が、諸本此の通りであるのに、爲相本に限りて「あやむべき」とあるので、解説は「あやしむ」とあるのが正しいとして居るが、「かろむ」「かろしむ」と同じ關係で「あやしむ」に對する「あやむ」も存し、國語辭典は千載集や堀川百首の用例を擧げて居るから、必ずしも「あやしむ」を正しいとするにも及ぶまい。
  • ○上卷八表、善珠が僧房の壁に唾を吐きかけたので、死後せつかく兜率の内院に生れながら、此の土に歸された事を記し、さて「さま〴〵のもちものかへしろなへていみじき名香どもかひて、ゆにわかして、僧房のかべをあらひ給ひて、内院の往生とげたる人也」と記して居るが、此の「かへしろ」は國語辭典に「返代、つりせん(釣錢)に同じ」とあるものとは異り、替代即ち賣代の義であらう、所持品を賣り拂ひ、其の錢でいみじき名香など買うたと云ふのだが、「かへしろなへて」では意が通ぜぬ。爲相本にも此の通りにみるが、恐らくは、「かへしろなして」とあるべきものと思ふ。
  • ○上卷駿河の國宇都の山に家居せる信の條に、或る僧が、殊勝なる便宜坊に自分は僧侶であり乍ら出離の道に迷うて居るから教へてくれと頼んだところの文に「まうけ給ぬ」と云ふ語〈三五ウ八行〉がある、爲相本では「さうけ給ぬ」に作つて居るが、「さうけたまひぬ」では、こゝ意味が通ぜないやうに思ふ。「うけたまはりぬ」の誤ではあるまいか。「給ぬ」を謙遜の語として「うけたまへぬ」と讀めば、このまゝでもよいが、本書には、然う云ふ「たまふ」は見えないから、「たまへぬ」ではあるまいと思ふ。
  • ○下卷の怨み深き女が生き乍ら鬼に成つた話に、男に疎んぜられた女が恨みて食を斷つた事を述べ「またとしのはじめにも、なりぬべければ、そのそめきにも、この人のものくはぬ事も、さとむる人もなし」と記して居り、木版本〈六オ七行〉は「そめぎ」と濁點を施して居るが、こゝは、やがて正月にもならうと云ふので、歳暮の營みのゾメキ〈騷ぎの義だが、こゝは先づ、ゴタクサ、混雜位で可からう、沙石集に用例がある、但しこの頃はソメキであつたかも知れぬ、江戸期ではゾメキである。〉に取り紛れて、女の斷食を知らなかつたとか何とか云ふ意味であるらしいが、「さとむる人」が判りかねる。斷食に氣づかなかつたと云ふのであるならば「とがむる人」とでも有りたきところであるが、氣も付かず、從つて制止もせなかつたと云ふのであるならば、「然止さとむる人」と解すべきであり、これなら本文は此のまゝで可い筈だ。何れが可いのだらうか。
  • ○下卷の「やみのあきま」〈七オ九行〉「後のよの事をば、かけふれ思ひもよらず」〈三三オ二行〉は何れも爲相本でも此の通りであるが、私には此のまゝでは理解できぬやうに思ふ。がまだ考へ得ない。
  • ○上卷宇都の山の便宜房の條に、この僧の日常生活を記して「さてゆきとまる所にて。むしろこもめぐりにひきまはして。さるべきやうにいゑゐしつゝ。ひでものしてくひなどしける」〈三五オ〉と云つて居るが、爲相本には「いゑゐしつらひてものしてくひなどしける」とある。木版本の「ひでもの」の濁點や句讀は本のまゝに從つたのだが、「ひでもの」が判らぬ。爲相本によると、「家居しつらひて、物して、食ひなどしける」であるらしいが、「物して」が落ちつかぬ、「しつらひ、てものして、食ひなどしける」でも判りかねる。

野村博士が、近古時代説話文學論の中で、本書下卷に見える長谷寺へ月詣する女の話と、長谷寺靈驗記下第二十七話との關係を考察し、閑居友は靈驗記から取材したのであらうと論ぜられたについて、解説は鎌倉末期を下らざる古寫本靈驗記の本文を擧げ、且つ閑居友から靈驗記の文が出たとする永井義憲學士の説を擧げて居られるが、閑居友をかねてより研究して居られる神谷敏夫氏も「國學」第五輯〈日本大學刊、昭和十二年一月號〉の中で靈驗記と閑居友との關係を考へ、靈驗記卷上、第十七語に「後鳥羽院」の語のある事を指摘し、靈驗記が、後鳥羽院と申す御謚號の治定した仁治三年七月以後のものたるべき事を論じて居られる。氏は承應四年刊行の靈驗記により立論せられたのだが、論法は正しい、前田家の古鈔本では何う成つて居るだらうか。

下卷「なにがしの院の女房の釋迦佛おたのむこと」の條に、著者のほの知つて居る某の院の女房が、病氣と成つたのを、著者が見舞に行つて、いづくの淨土を心に懸けて居るかと問うたところ「なにとなくたのみなれにしかば、靈山淨土にむまればやとおもふ也」と答へたのに感激し、長々と釋尊讃歎の文句を書きつらね、さて衆生を見る事なほ子の如しと云はれた釋尊の慈悲心にそむくだらうから、今後は生きとし生けるものは、みにくき虫までも疎むまじ「いまよりは、かやうのくちなは、みゝすまでも、いたくうとしとは、さしはなたじよとおぼゆ、よゝへたる父母、むつ事のなからひにてもあるらん」〈木版本では三一ウ〉と云つて居るが、是れを見ると、堤中納言物語の「虫めづる姫君」が、模型の蛇で動くやうに成つて居るのを惡戲好きの或る上達部より贈られて、さすがに恐しと思ひ「なもあみだぶつ、なもあみだつ」と唱名し、それでも「生前の親ならむ、な騷ぎそ」と、恐れ惑ふ侍女共を制して居る語を思ひ出す。蛇を見て前世の親ならんと云ふ事、恐らく佛典に典據があるのだらう。

最後に本書中の語彙で注意すべきもの、を列擧する。淺學な私では理解できぬものも擧げて、識者の教示を乞ふと共に、私の備忘用ともする。

  • ○あやむ〈下一一ウ〉 諸本「あやしむ」に作るが、爲相本にのみ斯くある。怪しむだが、これで可い。既述。
  • ○あはたかし 「かしのみおなんとりおきて、くひものにはてうじける、まへに池お、てづゝげにほりて、それにいれをきて、あはたかしなどしけり」〈下一オ〉「あはたかす」と云ふ動詞らしいが意義不詳である。
  • ○あたる 上〈三三ウ、二度、三七ウ〉 下〈一六オ〉 などに見える。今の「辛くあたる」の「あたる」で珍しくないが、自分には珍しく見えるので擧げる。
  • ○ゑわらひ 上卷〈三〇ウ〉「たかきゑわらひもせず」。國語辭典は字鏡集と枕草子を引いて居るが、後者には本により相異がある。類聚名義抄に咲ヱワラフ。
  • ○かへしろ〈上八オ〉 替代であらう、賣代の義。既述。
  • ○かんぞり〈上三四オ〉 剃刀の義、國語辭典は此の形を擧げず、多武峯物語により「かうそり」を擧げて居る。木版本に「はんそり」とあるは誤。
  • ○かほたて〈下二六オ〉 國語辭典に擧げず、今のカホダチに相當するやうだ。
  • ○後世とる〈上三四オ三五ウ〉 此の云ひ方が珍しい。
  • ○これう 「さてしばしは、さるほどのこれうを、日に二たびくひけるが、後には一日に一合のこれうを一たびなんくひける」〈上二四ウ〉「日に一合のこれうをくひて、さらにそのほかのものもくはず」〈上二九ウ〉木版本は皆「かれう」に作るが爲相本に從ふべきだらう。簡易な糧食らしいが、語義不明である。
  • ○さかまたぶり〈上一六ウ一七ウ〉 「またぶり」の語は和名抄に見え、枝の分岐したものを云ふ。枝の先を二股にし、持つ所を丁字形にしたものを「またぶり杖」と云ひ、宇治拾遺卷十四「經頼蛇に逢事」の條に見え、實物は繪卷物に珍しく無く、僧俗男女使用して居る。鹿の角の形に似て居るから、鹿杖(かせづゑ)と云ひ、此の名和名抄にも見え、宇治拾遺卷八「下野武正大風雨日參㆓法性寺殿㆒事」の條にも見える。「さかまたぶり」と云ふと「逆またぶり」で、またぶり杖の逆のもの、即今の松葉杖のやうなものに聞えるが、乞食僧が「さかまたぶりといふことをたてゝ、ものをこひてよをわたるあり」と云ふ文句で見ると、普通のまたぶり杖をさかさまに立てゝ、占か何かでもして居たやうに思はれる。折口博士の古代研究に、昔は乞食房主が此の杖を持つて歩いた、西洋にもある形で、物を探つて行く爲めのものだ〈上六〇九〉とあるが、何うやら呪術と關係があるらしい。但し日本では何も乞食房主の專有物で無い事は上述の通りである。宇治拾遺の經頼は相撲取であり、武正は隨身である。
  • ○さうき 下卷の「もろこしの人馬牛の物うれうる聞て發心する事」の條に〈一八ウ〉親子三人が山の麓に隱棲して、「さうき」と云ふものを日に三つ作りて娘に賣らせたとあるものだが、何の事か全く知らない。
  • ○しのばし〈上三一オ四〇ウ〉 「忍ぶ」から出た形容詞で、慕はしいの義、國語辭典は撰集抄から用例を取つて居る。
  • ○そめき〈下六オ〉 木版本には「そめぎ」と濁點が施してあるがゾメキであらう、國語辭典は沙石集を引用して居る。既述。
  • ○それがし 上〈三ウ〉 下〈四ウ〉等に見えるが、前者は不定稱の某の義、〈「なにがし」も下二六ウに見ゆ〉後者は自稱である。自稱の用例としては擧げて可い方のものである。
  • ○そら物ぐるひ〈上一七ウ〉 伴狂の義、國語辭典に採取して居ない。
  • ○とりむすめ、とりおや〈下八ウ九オ〉 國語辭典は本書より此の語を採取して居る。「とり」は取であり、養女、養父母の義。同じ類の語にトリコと云ふのがあり、發心集にも見えるが、類聚名義抄に猶子をトリコと訓んで居る。
  • ○はしばみて〈下五オ〉 顯基中納言が捨てた室の遊女の事に關して「さやうのあそび人となりぬれば、さるべきさきのよの事にて、いかなれとも、はしはみてこそ侍を、あぢきなしよしなしとおもひさだめけむ事、たぐひなく傳へし」と述べて居る。「いかなれとも」も判らない言葉である。
  • ○びん〳〵なる事〈上三五オ〉 「つねには、そのさとのものどもにつかはれで、びん〳〵なる事をば、いみじく心してしければ、びんぎ房とぞ名づけたりける」とあるが、「便々なる事」「便宜房」の字をあてるべきだらう。
  • ○ひらかど〈下一三オ〉 長谷寺へ月詣する女房が、京へ上り、姉と成つてくれる人の家を物色する場面に「いたくむげならぬいへの、いとふるびてみゆるが、ひらかどに車よせなど、さるほどにしたるが、いたくさはがしくもなくて、うちしめりたるやうなるありけり」とある。「ひらかど」は平門らしいが、何う云ふのを云ふかを知らぬ。
  • ○ふところせばくなる〈下一〇オ〉 右の月詣の女が、幸福を望んで三年も月詣して、いよ〳〵錢が乏しく成つて行く事を記すに當り「さすがたやすからぬ道なれば、いよ〳〵そのふところも、せばくぞなりまさりける」とあるのだが、「懷があたゝかい」「懷がさびしい」などゝ云ふのと同じ類の云ひ方である。
  • ○骨を折る〈上五オ〉 如幻僧都の事を記して「くまのにこもりて、身をくだき、ほねをゝりて、ひとすぢにおこなひたまひけり」とあるもの、國語辭典は夫木抄所見信實の「さりとてもさせる事なき破れ傘骨を折りてぞ君につかへし」の歌を引いて居る。
  • ○むさう〈上四九ウ、下三オ、二三オ〉 無慚の音便化したもの、國語辭典は宇治拾遺を引いて居る。
  • ○むらなし〈上三六ウ〉 「むらなきがうのもの」とある、拔群の勇者の義であるやうだから、「むらなき」は群無きか。
  • ○めもはつかなるわざ〈上一七オ〉 清水のはしの下〈五條橋の事だらう〉に住む乞食僧が、時の大臣の修する盛大な佛會の説法の高座に無斷で上つた事を記し、さて參詣の人々について「あれはいかにぞと、めもはつかなるわざかなとあやしみあひたりけれど………」と述べて居るのだが、「はつか」が判りかねる。驚き呆れた眼で眺めた事を云ふらしく想像せられるに過ぎない。
  • ○目だゝし〈上二九オ〉 木版本に「かやうにふつに身をすて侍人には、をはりのとき、かならずめたしきほどの瑞相の侍なめり」とあるものにて、爲相本に「めたゝしき」とあるのが正しい。國語辭典は發心集の例を引いて居る。「めだゝし」は「目立つ」の形容詞形で、「腹立たし」「面だたし」と同じ云ひ方である。
  • ○山おくり〈上一四ウ〉 葬送の事で、野邊送りとも云ふ。野と山とで云ひ方がかはるだけの事である。國語辭典は撰集抄を引いて居る。

語法的な事について云ふと、格助詞「と」が承ける述語は係結の無い場合は當然終止形であるべきだのに詠歎か何かで、連體形と成つて居る例は珍しく無いが、地の文に於ける終止の「けり」が「ける」、と連體形になつて居る例が、

さて、その心ざしをとげたまひける〈上六ウ〉

わが身はやがて、その日出家して、しづかなる所しめて、いみじくおこなひ侍ける〈下四ウ〉

あるが、これも、他の動詞なら知らず、良變の「けり」では大して珍しくは無い事である。

「いはんや」「いかにいはんや」は、下に「をや」を取るが、「おいてをや」の例は全く無い、これも當然である、永平承陽大師の正法眼藏は、漢文調の文だが「おいてをや」の例は全く見えぬ。

下卷なにがしの院の女房が、釋迦佛を頼む事の話の末尾に「さてもこの佛〈○釋迦〉の御事のかきたく侍まゝに、なにとなき事のついでを悦侍ぬるにこそ」とある。「かきたく」は「書きたし」と云ふ希望を示すのであるが、爲相本は「かきたゑ侍………」と書き、「ゑ」の右旁に「く歟」と註して居る、當然「書きたく侍」とあるべきだ。さて斯う云ふ「たし」も此の頃としては、先づ注意すべき方である。

  • (八月二十三日)


解説は、書名の閑居の訓み方につき、カンキヨで無く、カンゴ又はゲンゴとよんだかも知れないと云つて居るが、これは從來誰も云はなかつた事であるが、いかにも緇徒用語としては、有りさうな訓み方である。だが閑居の二字をカンキヨと訓む事もあつた事を、前田家の三卷本色葉字類抄疊字門の記事により申し添へて置く。(校正の時記す)