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日経メディカル緊急特集●ルポ 東日本大震災 奮闘する医療現場 Vol.9
「避難者になっても避難所で昼夜診療を続けた」
村岡外科クリニック(宮城県気仙沼市)院長 村岡正朗氏

 訪問診療から戻って駐車場に車を入れると、大きな揺れに襲われた。電柱は左右にしなり、診療所内はぐちゃぐちゃに。その後の本震はさらに大きくて長かった。津波警報が聞こえてきたので、外来患者や職員、迎えを待っていた近所の老人を連れて気仙沼市民会館と市立気仙沼小学校、気仙沼中学校がある高台に歩いて避難した。

 実のところ、すぐに帰れるだろうと高をくくって聴診器も持たずに診療所を出た。2010年2月のチリ地震の時、大した津波も来なかったのに避難所で1日を過ごした経験があったからだ。ところが、しばらくして高台から市内を望むと、そこには映画のような光景が広がっていた。自宅兼診療所も津波に飲まれた。

 直後から津波でびしょぬれになった人が次々と高台に登ってきた。けがをした顔なじみの地元の人から、「先生、何とかしてよ」と言われて、すぐに野外救護所状態になった。その後、市の職員に頼まれて、中学校の体育館に救護所を設置。といっても、使えるのは救急箱と毛布、運動マット、卒業式のために張ってあった紅白幕ぐらい。館内には数台のストーブと数本の太いロウソクしかなかった。

 骨折患者には段ボールで即席のシーネを作り、ガムテープで固定。多くは数時間水に漬かった患者だったが、重油を飲んだらしい5歳の患児もいた。呼吸状態が徐々に悪化したため、動かせる車を探して真っ暗な町の中を迂回に迂回を重ねて気仙沼市立病院まで何とか搬送。患児は次の日に気管挿管され、数日後には回復したようだ。

 震災から2日間は日中、水にぬれたか水を飲んだかした患者ばかりがやって来た。助かった避難者に聞くと、夜は暗闇で何も見えず、瓦礫にしがみついたままひたすら耐え、明るくなってから自力で抜け出したり、誰かに助けられたりしたらしい。ただ、そういった患者も3~4日目には途絶えてしまった。約1週間後に電気や水道が復旧するまでは、打撲や捻挫の痛みや夜間の不安感を訴える患者が多かった。

 ピーク時の避難者数は市民会館と小中学校合わせて約1500人。震災3日後に保健室に救護所が設けられてから4月末まで、保健室で寝泊まりし、診療を続けてきた。6日目に自衛隊が体育館に救護所を開くまで、昼夜を問わず1人で避難者の診療に当たらなければならず、まるで研修医時代のようだった。自衛隊が来てからも、顔なじみだからと私を受診する避難者が多く、診療を止めるわけにはいかなかった。一息つけたのは、7日目に日本プライマリ・ケア連合学会の救援医師がこの救護所に応援に来てからだ。

 避難所では地元の人から「いつクリニックを再開するのか」とよく聞かれる。診療所は外壁にも穴が開き、鉄骨も曲がり、使える状態ではない。いつになるかは分からないが、気仙沼市内の津波が来なかった別の場所に診療所を建てたい。現在は市内の在宅医療のニーズが高まっており、支援医師にはこれまで以上の医療を提供してもらっている。これまでは外来と訪問診療を半々で診ていたが、今後は、訪問診療を一つの柱に、この地で診療を続けたい。(談)

村岡外科クリニックの村岡正朗氏が震災の日から寝泊まりしながら診療を続けてきた、気仙沼中学校の保健室。「気仙沼市内の津波が来なかった別の場所に診療所を建てたい」と話す。

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