「六本松学生の安保点景」
 九州大学さようなら六本松誌編集委員会編『青春群像 さようなら六本松』花書院、2009年


 話者‥桂木健次、大藪龍介
 (途中一部参加)小川滋、(紙上参加)井藤和俊
 聞き手‥福留久大、服部英雄、貴田潔(比文院生)
 6月4日福岡工業大学桂木研究室にて

(*1950年代の六本松の自治会活動について貴重な証言が得られてみると、60年安保時代についても記録しておきたいという欲求が生じた。しかし、六本松勤務が福留は1970年以降、服部は1994年以降であって、六本松の60年安保については共に全く知識がなかった。当時の学生で院生を経て九大で教職に就いた何人かの人々に、証言者として適した人の推薦をお願いしたところ、福岡在住で、安保時代の九大学生をよく知る人、その時代を受けとめて生きた人として浮上したのが桂木健次氏と大藪龍介氏であった。お2人は法学部に1957年(昭和32)入学。大藪さんは57年12月に教養部自治会委員長、桂木さんは病気で復学後の58年6月に教養部自治会委員長に就任。安保闘争後は、紆余曲折を経て、奇しくもお2人とも後年富山大学教授。大藪さんは、福岡教育大学に転任後、定年を迎えて、目下は独立自由人。桂木さんは、富山大学定年後、福岡工業大学社会環境学部と大学院の創設に参画して、現在同学部教授。桂木さんには自身で語った経歴「「ものみ」と「草刈り」と」(『経済学部同窓会報』第35号、2003)がある。以下、敬称省略。)

 60年安保に至るまで

(桂木‥専門は環境経済学)日田から福岡に出てきて百道中学に通学、その後、修猷館高校に進学した。昭和32年(1957)、九大に入学したがルンゲ(肺浸潤)療養に専念、自宅療養して直っちゃった。当時、結核の人は少なくなってはいたけど、まわりにはけっこう多かった。日田時代に、こんなことがあった。ぼくの従姉が嫁に行っていた、その旦那は日田で小学校の先生だけど、組合運動に熱中していて、(党員で)机の上に『前衛』が置いてある。「トロツキスト宮本顕治を追放せよ」と書いてあった。

(福留)ほぉ、所感派ですねぇ。(*国際派の指導者が宮本顕治氏、後述)

(桂木)トロツキストということばをはじめて知った。それが中学生。すごいなぁと思っていた。昭和27、8年(1952、3)頃ではないか。

(大藪‥専門は政治学)昭和32年(1957)、ストレートで九大に入学した。高校は柳川の伝習館高校から途中で久留米大付設に転校。付設は、大牟田や浮羽郡方面からも結構な数の生徒がきていたが、当時、進学校としてはそれほどでもなかった。大学進学では、今と違って、同じ久留米でも明善高校の方がよかっただろう。

(桂木)セツルメント活動は高校を卒業の頃からやっていた。むかしの博多駅の東に堅粕診療所があった。病いが治ってから、六本校界隈をウロチョロ。六本松キャンパスは国際派だから敬遠して、古賀書店の親父さんとつきあっていた。

(*当時の日本共産党は国際派(非主流派)と所感派(主流派)があって、党の所感派は徳田球一・志田重男らの属した派(主流派)、対立派閥として宮本顕治らの国際派。1950年、コミンフォルム機関誌が、スターリンの意に沿って、日本共産党の占領下における平和革命論を批判した。これに対して日本共産党政治局が反論『日本の情勢について″に関する所感』を発表した(所感派の名称はこの論文名に由来)。続いて中国も日本共産党を批判したことから、党内は批判を受け入れるかどうかで分裂した。六本松教養部が国際派の拠点であったとされている。しかし桂木さんのスタートは所感派シンパだった。また古賀書店は(学友会雑誌)『展望』の宣伝に「社会科学と教科書の御用は古賀書店 福岡市六本松新道商店街」とある。新道市場にあった。1980年代まで、社会科学教室で継続購読していた雑誌類は、月々、古賀書店の主人が持参していた。)

(大藪)わたしは思想傾向としてははじめから反代々木、反スターリン主義。入学の前年、昭和31年(1956)にはスターリン批判があったし、東欧の動乱については受験勉強でとっていた英字新聞で読んだ。ノンポリだったけどソ連について疑問を持った。入学の年、昭和32年(1957)の秋には、ソ連による人工衛星スプートニク打ち上げがあって、宇宙開発の点では米国に先んじ、ソ連の国際的地位はかつてないほど高まったが、魅力は感じなかった。

 57年頃は九大入学生の半分は浪人組だったから、活動家にも年長者が多くいました。57年の自治会再建にリーダシップを発揮した木原義法さんは同期生だが、歳は4つも5つも年長。二宮君も同期生だが2歳年上。年長の活動家は共産党経験者だったから、その意味では、新旧左翼が混在していたとも言えます。

(桂木)自分は大学入学時には、所感派シンパでした。そのころまで、大半の学生運動家は、多かれ少なかれ共産党の影響下にあったと思われる。しかし、共産党を抜ける形でブントBund(共産主義者同盟。日本共産党を批判して成立)へ移る動きが、間もなく出てくる。

(大藪)学生達動は高揚と沈滞をくり返す。自分が入学した1957年はまだ沈滞が続いていた。自治会執行部から、クラス討論にくるわけです。偏った筋の通らない議論のように思えて批判、しかし、反発するだけでなく、自分でやる、という形で自治会運動に関わるようになりました。自治会規約作りから始めた。それまで、きちんとした自治会活動は無いに等しかった。57年11月に国際反戦デーで大衆運動として成功し、それが自治会立ち直りの出発点になった。多分12月に新執行部が発足し、委員長になりました。

従来の学生大会の議案書は、活動総括・情勢分析・活動方針と決まっていて、「平和と民主主義、よりよき生活のために」がスローガンでした。自治会再建にあたっての特徴は、より具体的な課題を設定して、1つ1つのクラス討論、クラス決議の積み重ねを行ったことです。大衆路線です。教養部学生は、1学年だけで1200人はいて、2学年の半数集めないと、学生大会は成立しない。六本校にあった講堂(その跡地に現在図書館が建っている)には、とても入りきれない。そこで、58年前期の学生大会は、医学部の講堂を会場として借りて、貸し切りバスを10何台も連ねて学生を医学部へ集めました。大衆運動として根を張っていった。

(桂木)この大会で、自分はナジの処刑に抗議した決議案を出した。この件は、面白い偶然でねぇ。テニスコート裏の寮のあとに、サークル部室があった。長屋になっていて、セツルも「展望」編集部も社研も、そしてカソリック研究会もあった。このカソ研に三宅というヒューマニストがおってね。ハンガリー56年動乱*の責任をとらされてのソ連によるナジ処刑はけしからん、いっしょに抗議声明を出そうということになった。そしたらセツルメントの診療部におられた先輩の勝野さんが「そりやまずい、カソリックと同じでは反共とみられる。セツルが独自で声明を出せ」。セツルメント独自で決議案を出したら、執行部があわててね。(*ソ連邦の権威と支配に対する民衆による全国規模の蜂起をさす。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧され、数千人の市民が殺害され、25万人近くの人々が難民となり国外へ逃亡した。)

(服部)執行部というと、大藪さんが委員長の執行部ですか。

(大藪)そうです。私自身は、そう驚かなかったのですが、教養部自治会の活動家には浪人組が多く、かれらは思想的に共産党の影響をうけています。ソ連の圧力で実行されたナジ処刑に抗議するというのでは、執行部全体としては、対応に困ったのですねぇ。

(桂木)そのときのセツルメント案は、票が足らず、議決に至らなかった。そのとき、ぼくのところに、篠原浩一郎(大藪執行部で副委員長)*が飛ぶように駆け寄ってきて「自治会をとれ、お前、次の執行部やれ」と言うのよ。躊躇したけど社会主義協会(向坂逸郎九大教授を指導者とする日本社会党内労農派マルクス主義の理論研究集団)系の福田勝さんが、いっしょにやろうぜ、と言う。年長者だった。おれが書記長やってもいいぜ。いつでも逃げ出せるようやればいい。こういう次第で、僕が大藪委員長の後を受けて次期の教養部自治会委員長になった。他の執行委員では、森苳夫君(農)と山口薫君(文)が副委員長。医学部クラスからも執行委員が2人いた。

(福留)篠原というとブントで話題になるあの篠原さんですか。

(桂木)そうそう、唐牛(かろうじ)健太郎と一緒に田中清玄からお金をもらったと騒がれた人。

(*篠原浩一郎氏は以後も本文に多く登場するが、いわゆる「唐牛問題」の当事者。田中清玄氏から闘争資金援助を受けていたこと、安保後には田中の紹介で神戸の田岡一雄系列の運命会社に勤めたことが1963年にTBSのラジオ番組で報道された。当時全学連委員長・唐牛健太郎、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。田中氏は右翼側の人物であったから、大きく騒がれて、ブント「全学連」、新左翼運動は大きな打撃を受けた。田中氏は戦前・武装共産党の中央委員だったから、心情的に通じるものがあったとされる。篠原浩一郎氏本人の発言は『60年安保:6人の証言』同時代社2005年刊。)

(*篠原浩一郎氏の証言は、当時の六木松の学生運動の一面を如実に伝えているので、一部引用してみたい。1957年4月に九大経済学部に入学した彼は、完全なノンポリで学校に全く出て行かないでヨット部の艇庫に通っていた。冬になってヨットに乗ることが出来なくて、大学に戻る。「ある日、学生大会をやっていたので出てみました。その時の主題は、エニウエトック島の水爆実験反対だったと思います。それで、ストライキをやると言うことでした。しかし、その直前に中国が水爆実験をやりました。当然、学生の中からこれにも反対しようという意見が出てきましたが、当時の執行部は共産党ですから『中国の水爆はいい水爆だ』と言って意見を取り上げようとしません。私はつい立ちあがって『それはおかしい、あらゆる水爆に反対』ということを強烈に主張しました。しかし、執行部は共産党に叱られるからか、どうしてもそれはできないと言うので、そんな馬鹿な執行部は退陣してもらおうと言いました。そうしたら本当に退陣して、仕方がないから私が執行部に入りました。(中略)そのうち大変面白くなりまして、春になってもヨット部に戻るのも忘れて学生運動にのめりこんだわけです。」前掲書218頁。)

(*「九大教養部の執行部のメンバーは、九大を5年前に退学になった先輩の守田典彦のところに行って、マルクスの『資本論』『経済学哲学手稿』『ドイツイデオロギー』なんかを熱心に勉強するようになりました。私、二宮、大藪、山口、梯、川本などです。スターリン、毛沢東、宮本顕治らの指導する共産党は全く人民を離れた自己中心の官僚制度だから、新たに本当の労働者階級のための革命政党を作らなければならないという結論に達しました。」前掲書219頁。)

(大藪)わたしは、法学部に進学して、58年秋に全学自治会である学友会の委員長になった。59年5月から60年にかけては、九州地方学生自治会連合(九学連)委員長で、九州各地を飛び回ることになります。1つ上の学年では八丁さん*が中心だった。文字通り口八丁手八丁。根回しもうまかった。

(*八丁和生氏はその後、社会問題研究所に勤務して事務局長。広く労働運動・社会運動の指導に当たるとともに、奥田八二知事誕生に貢献、奥田知事体制の裏方として活動。1988年3月25日、くも膜下出血で逝去。著作に『ポスト戦後政治=「企業国家」をこえて』。八丁和生さんを偲ぶ文集作成委員会編『山より高きその志』1989年、社会問題研究所刊。偲ぶ文集に寄せた大藪氏の「九学連時代の八丁先輩」に、次のような一節がある。「八丁さんとは、九大法学部の先輩後輩の間柄であったが、それ以上に、1960年安保闘争のころ、青春の真っ盛りの数年を、当時の言葉をそのまま用いれば、世界革命の突破口たるべき日本の革命を目指して共に闘った同志であった。八丁さんが九学連(九州地方学生自治会連合)の書記長として、福岡ならびに九州の学生運動再建の困難な任にあたっていた1958年に、新米の活動家のわたしとの交わりも始まった。しかし、記憶として鮮明に残っているのは、九学連委員長をわたしが務めることになり、59年5月頃、八丁さんに連れられて挨拶とオルグで九州各地の加盟大学を一巡したときのことである。その折の指導のお陰で、活動家として随分成長したように思う。」「旧箱崎昭和町にあった貸間家は、6部屋とも仲間たちで借りて学連長屋、そこには多くの活動家たちが年中屯して、熱気に溢れて議論を囲わせ、闘争の準備に追われていた。なかでも八丁さんの部屋は、わたしの部屋の斜め向かいにあったが、いつも集りの中心であった。八丁さんはロも手も抜群なほどに達者だったから、とくにコンパともなれば独壇場の趣があった。雄子さんとのロマンスを聞かされて、後輩連中は羨ましがらせられたこともあった。」同文集、34頁。)

(大藪) 58年に警職法闘争があって、一つの盛り上がりがあった。59年に入って、国鉄志免炭鉱閉山反対闘争、福教組・日教組勤評闘争(勤務評定反対闘争)など戦闘的な労働運動が相次ぎ、60年には安保闘争、そして三池闘争で戦後日本の労働運動の昂揚が山場に達します。九大・九学達の学生運動も爆発的展開を迎えます。労働組合との提携も順調でした。福教組とはとくに仲がよかった。良く憶えているのは小野明さん、福教組委員長から後に参議院議員になりました。

(福留)60年安保の話に入る前に、学生運動のなかの新左翼潮流について簡単に説明願えませんか。

(大藪)帝国主義反対は勿論ですが、独自性として、ソ連はおかしい、社会主義としては似而非だ、ということから出発しています。新左翼は3つの思想的源泉がある、と言われます。黒田寛一の哲学、宇野弘蔵の経済学、対馬忠行のソ連論です。対馬さんの本では、赤色帝国主義や大粛清のことが書かれていて、ソ連は社会主義ではないとされています(『クレムリンの神話・ソ連は社会主義国に非ず』1956)。戦時中からトロツキー文献の収集と翻訳を開始していた山西英一、共産党内反対派の関西の西京司、『探求』を発刊してあらたな理論構築に乗り出した黒田寛一、そういう人たちが、第四インターのもとに集まって、57年12月、日本革命的共産主義者同盟(革共同)を結成。その思想が全学連活動家のなかに浸透して、58年の全学連大会で委員長になった塩川喜信さんなどが参加。共産党に代わる、革命的労働者党の創設を打ち出します。革共同に続いて、58年6月1日に、共産党の代々木本部で、全学連幹部が共産党幹部と衝突する、いわゆる「6・1事件が起き、全学連活動家たちがまとまって共産党と決別して、58年12月に共産主義者同盟(ブント)を組織した。ブントは俗に学連新党とも呼ばれます。59年の全学連大会で、ブントは執行部を握り、唐牛健太郎が委員長になった。こうした動きのなかで、九大・福岡でも学生活動家が結集してブントが誕生した。福岡ブントの結成では、守田さんの指導が決定的でした。

(桂木)こういうことがあったよ。みなアンダーシャツで夏だった。旧法文経ビルの地下に掲示板があって、共産党九大細胞幹部の声明文が赤字で掲示された。森苳夫君が、細胞の本部があった箱崎の近くの家に泊まっていた。彼から、声明文が張ってある、と連絡。それで自分達は路面電車に乗って教養部から見に行った。署名は共産主義者団。「共産党はダメだ、自分たちは脱党する。残る人、出る人、各々慎重に行動してくれ」という趣旨。だれが書いたんや。孫君が解説、立山学が書いたらしいと教えてくれた。立山という人はあとで社会主義協会へ行った。結局共産党九大細胞は上の世代と胴体が残って、活動的な学生運動家は党を出た。

(大藪)孫君はあとで北朝鮮に帰ることになり、博多駅で見送った。千代町(新博多)の貧民街に住んでいて、お父さんが共産党関係で地下にもぐったままということだった。北朝鮮に帰ったら批判精神を忘れず闘えよ。わたしなどはそういって送り出した。60年安保より前のこと。それからは音信不通でどうなったか、わからない。

(桂木)声明の仲間は他に、田中義孝(当時政治学・院生、自治労に行った人、故人)、田島司郎(経済学・院生を経て、熊本学園大学教授になった人、故人)たちで、大半が社会党系の社会主義協会に行った。

 九大学生の60年安保

(福留)60年安保の話に移りましょうか。

(桂木)まもなく60年安保がくるという59年9月、二宮章一(1年すでに留年していた)が、「おれはまた留年する。あと2人、留年して運動を続けないと、60年まで闘争が継続できない。家庭条件を調べた。原野利彦(教育学・院生を経て長崎大学教授、故人)と桂木、2人が留年しろ」となった。

(福留)家庭条件というのは、東大だったら親が社会党代議士の江田五月、横路孝弘が最適という類ですね。

(桂木)自分は、単位はフランス語だけ2つしか残していなかった。城野さん(節子先生)が、単位あげるから箱崎に進学してくれと特別試験を用意してくれた。わざと受けんと腕組みして、白紙答案を出して、留年した。

(*この時期の学生運動気質について、原野利彦氏は、1981年に次のような証言を残している。「活動をやる場合やはりクラスである程度きちんとした勉強をしていないと、学生がバカにするわけです。あいつは学生運動ばかりやって勉強しないと思われてはシャクだという意識があったんですね。ですから教養部の勉強はもちろん、活動関係の難しい本などにも真剣に取り組んでがんばりました。あの頃の学生運動家は実によく勉強しましたよ。」『九州大学教養部30年史』262頁。)

(桂木)60年安保のころは、学生活動家と教官との交流も密接だった。川口武彦さん(教養部経済学担当教授、1973年向坂達郎先生の補佐役に専従するために退官・上京、故人)は、時には自治会学生を研究室に呼んで「資本論勉強会」を茶話会的に主宰されていた。日ごろ「闘いか死か」とジョルジュ・サンドを気取っていた篠原浩一郎も畏まって、マルクスの10年恐慌説について懸命に聞き入っていた。(*この時期について、前出の篠原証言には、次のような説明がある。「島成郎が59年夏に九州に来ました。北海道には唐牛を指名したのに、九州からは誰でも良いから1人出せでした。」「当時、二宮君と私が九大教養部の中心的活動家だったので、どちらかが行き、どちらかが教養部に残って学生運動を指導するということになり、私が行くことになりました。この頃学生運動をやるということは、若いなりにも『我々は職業革命家になる』という覚悟でいました。つまり普通の社会に背を向けて、命がけで体制と闘うということですね。『東京に行ってやりだしたら命がなくなるんだ』という覚悟を決めました。死んでも良いと思っていましたから、私が行くことになってもさほどのことはありませんでした。保険の外交をして育ててくれた母親に悪いなと思いましたけれど。」前掲書221頁。)

(大藪)60年安保闘争時には、すでにブントが福岡でも定着していて、九大では圧倒的でした。九大での共産党は、教員には多かったのでしょうが、学生は個々に運動に加わっている感じで、組織的な力は目立たなかった。共産党とは、福岡県や福岡地区の安保反対共闘会議で、闘争方針をめぐってしばしば激しく対立しました。

(桂木)自分は60年に向けては、大学賄の食堂の値上げ通告から発生した生協設立運動に川本光治(九大生協元専務理事)さんや魚屋忠久さん(学友会の厚生部専従、九大生協初代専務理事)たちと取り組んだ。そっちが主になって安保には直接関わっていない。原野は九学連の副委員長になった。自分は、生協が活動の中心だったから、安保闘争は加勢程度。三池闘争の時は実態として生協はできている。全学連部隊が三池闘争に動員をかけたときに、生協がその兵站部となった。全学連の学生は三川ホッパー守備に当てられて、竪坑に陣どってスト破りを見張るのが役目だった。生協関係者は、そちらには行かず炭住(炭鉱労働者住宅)で米何升とか計算して釜炊きをやった。九大生協は1960年4月1日設立、10月14日厚生省の許可を得て営業開始って年表に書いてあるね。

(大藪)全学連が、60年1月15日、羽田空港で岸首相の渡米阻止闘争を組んだとき、九州からも20人ほど参加しました。逮捕者も数名出た。自分も九学連の委員長として事後逮捕された。特急列車で警視庁まで護送されたが、当時東京まで20時間ほどかかった。1月だから都下の警察署に留置された者は寒くてたまらなかったようだけど、わたしが留置された警視庁の地下牢は暖房が効いていた。

九学連は年に1回定期大会を、九州各県の大学の加盟自治会代議員が福岡に集まって開催しました。会場は、大抵、前の県庁の裏手にあった労働会館。九大各学部、西南学院大、福岡学芸大(現福岡教育大)、福岡女子大の各自治会は、すべてブント系、佐賀大はブント系が共産党系に対しやや優勢、大分大では革共同系がブント系に対し優勢、熊本大、熊本女子大(改組されて現在熊本県立大)、鹿児島大は革共同系、長崎大、宮崎大はブント系という勢力分布だった。いわばブント系が主流派、革共同系が反主流派で対立はあったが、反日共系で立場の共通性があるから、組織としてはまとまっていた。当時都学連(東京都学連)は組織としていくつかに分裂していた。

 60年1月末に、九大では大事件が起きました。旧法文建物の地下にあった九学連書記局が、羽田闘争に関連して捜索を受け、大きな騒動に発展した(60年1月21日、『教養部30年史』では「九大事件」、『九大75年史』では「九学連事件」として詳しく記述されている)。よく憶えているが、早朝、大学の近所にある「学連長屋」に、捜査が入ったと知らせが来た。すぐざま駆けつけて、学生の安保反対の署名簿を含む押収資料をぜったい持ち出させない、ということで捜査官を本部の学長室に連れていって閉じ込めた。捜査に抗議する学生がどんどん集まって来て事務局本部建物の廊下にすわりこんだ。大学側も関係者が解決のために尽力したが、捜査官との押し問答、県警との交渉は終日続いた。夜になって、県警機動隊が正門前に出動、これに対抗して正門にはピケを張った。しかし、夜半すぎに、機動隊が、正門は閉められていたので横の屏の柵を踏み倒して、学内に突入し、ピケを破り、本部建物に座り込んでいるみんなをごぼう抜きして、捜査官を連れ出し押収資料を持ち去った。その頃は未だ「大学の自治・学問の自由」は絶対的なほどに尊重されこれを守ろうとする姿勢、気概は大学内に行き渡っていました。山田穣学長は、警察の捜査が入ったときに「ご苦労さん」と言ったというので、厳しく追及されました。

 60年安保は、学生も教官も、職員組合も一体になった形での、いわば全学をあげての闘いでした。法学部でもストライキをやり、その処分もあった。しかし、具島兼三郎学部長からの口頭での注意による形式的なもので、実質的な処分はなかった。法学部の同期生では東富士男君(弁護士、法律事務所開設)、樺島義幸君(元福岡県企画振興部長)、森永武彦君(元九電役員)、和田敏之君(西日本印刷社長)などが学友会や自治会を担っていた。こうした無党派の活動家達の活躍も闘争が大衆的に広がり高揚するうえで大きかった。

 福岡の四大学による集会は、警固公園を会場にして、九学連書記局が組織しました。九学連書記局三役は、委員長のわたしの他、書記長は九大法の梯武寛君、副委員長が西南学院大の庄島厚生君と1学年下で九大教育の原野利彦君で、福岡学芸大と福岡女子大は執行委員を出していました。西南学院大と福岡学芸大の自治会も強かった。池田数好さん(後に教養部長、学長)の子息は学年が下ですが当時の西南学院大の中心的な活動家の1人でした。

 闘争の中心部隊はなんといっても九大教養部です。教養部の闘いいかんが全体を左右しました。福岡の集会では、教養部はデモ行進しながら警固公園へ。箱崎の学部からは貸し切りバスで警固公園へ。西南学院大や福岡学芸大(本校が大橋、現在の九大芸工学部の所在地に、福岡分校が西公園横にあった)、福岡女子大もバスで集まった。参加者総数は、カンパニアごとにばらつきはあったが、概ね、1500〜2500ぐらいでした。当時の警固公園はいまよりかなり広かった。

 集会では、九学連書記局が司会、挨拶、各自治会代表が意見表明。来賓として社会党は楢崎弥之助さんが常連で、すぐ後で衆議院議員になりますが、まだ社会党の専従。戦闘的で元気バリバリでした。共産党からも来賓挨拶を受けていました。デモ行進は、警固公園から天神、中洲、呉服町を経て旧博多駅までが、お定まりのルートだった。2000名くらいがジグザグデモをまじえて行進するのだから、市内電車が数珠繋ぎで止まってしまいます。その点ではみんなに迷惑かけたとは思うけど、全体的に市民の支持が広くありました。

 全学連の国会デモで東大女子学生樺美智子さんが虐殺されて安保闘争が頂点に達した6・15の県警前抗議集会では、参加者は更に膨れ上がりました。九大看護学校生、高校生からの参加もあった。市民を含めれば、7000〜8000人になったと思う。県庁、県警、市役所に囲まれた道路と広場を埋め尽くしました。

(桂木)60年1月15日の岸首相の渡米阻止闘争に関連して教養部自治会は、1月14、15日のストライキを組んだ。この教養部ストでは二宮、原野、神君が停学2ケ月、桂木が譴責処分になっている。停学の3人は議長団だったから。自分の譴責は妙な成り行きからだった。当時、一連のストライキでスト破り常習学生がいて、確か心理学の授業でクラス討議を巡って揉め事が起こったという連絡があって、自治会室から僕が駆けつけて彼を教室の外に連れ出そうとして、それが授業妨害(授業を受ける学生を邪魔した)ということになったと、教授会議事録には残されている。(なお、彼とは、法学部進学後は仲良くなった。妙な縁です。司法試験に挑戦していたけど、合格したんだろうか)。 

 学生処分は各学部で上申して、評議会で決める。教養部は当初停学でなく戒告程度ですまそうとしたけれど、手ぬるいといって評議会から突き返されて先のような処分になったりした。

 安保の山場が来ると、4月26日スト、5月26日授業放棄、6月4日ストと続いた。最大の盛り上がりは、樺美智子さん死去の翌日、6月16日の学生大会で、体育館に超満員の学生を集めて開かれ3日間のストを決議した。これら一連の安保改定反対運動の事後措置については、12月7日、21日等の教授会で審議されたが、結局具体的な処分は行われず、学長名で告示を出すに止めることになった。

 田中定さんが、わたし(桂木)が箱崎の法学部に進学する頃まで教養部長だった。

 大藪さんから委員長を引き継いで、60年安保より少し前のころ、いろいろの課題のデモが行われたが、当時イラクからのエル・サマライ君という留学生が医学部にいた。国費留学生だから目立つことはしてはいけないのに、デモにでるのが好きでねぇ。おまけにハネる(ひとりだけ危険な行動をとる)のよ。かれがハネあがるのを押さえるのがぼくら執行委員会の役目だった。学生係の中川さんや前田さんが、「かつらぎくーん、こっちに来て」と呼ぶから、先頭にいてデモの指揮をしていても、別の人に替わってもらって彼を押さえる。イラク革命が起きてフセインが王政を倒した。「大変だ、日本になんかおられん」って帰国したけど、どうなったかなぁ。

 当時好まれた歌は革命歌とロシア民謡、「ともしび」(歌声喫茶)が天神にあった。元の岩田屋の萬町側斜め前にあった。六木松校舎前の「ひかり」って喫茶店は、活動家の溜まり場だった。

(福留)桂木さんの後の委員長はだれですか。

(桂木)それが思い出せないが、九大新聞によると、58年12月4日の学生大会で、森苳夫が委員長、山口薫副委員長、原野利彦書記長が選出されている。59年度は、後期が神正夫執行委員長の体制。60年4月になると、続々と入学してきた教養部での活動家に小川滋や牧村がいて、年長だった小野塚、2年の奥村君(農学部)が自治会執行委員長になる。小川さんは九大を定年で辞めて、いま、この大学(福岡工業大学)に在職。かれらは党派ブントとしては出てこない。

(大藪)神君といえば、教養部自治会委員長の神君と九学連委員長の私、それに農学部教授で前学生部長の平岩馨邦さん、教養部長夫人の田中節子さんの4人が西日本新聞紙上で座談会をしたことがある(59年12月14日朝刊「アラシのなかの学生運動」)。

(*福岡工業大学・小川滋教授が途中短時間・数分のみ参加した)

(小川)60年後期の委員長は、あとで九産大の教授になった西田。次が堀山。西田はドッペって(同じ学年を2回した。留年した)委員長を務めた。堀山は癌で10年か前に死んだやろうと思うけど。そのあとは民青も入れた社青同がマル学同(革共同)から自治会執行部を取った。(*2005年、小川滋氏(農学研究院・専門分野=森林水文・水土保全に関する研究)の九州大学定年時の「さようなら九州大学」に寄せた文章に、次のような興味深い一節がある。「今、振り返ると『大学を問う』こと、つまりは自己を問うことで生きてきたのかも知れない。『大学』に入学した途端に、安保闘争、大学闘争と立て続けに社会と自己、そして大学と自己との関係を問うことに否応なしに引きずり込まれた。まだ、その答えも曖昧なまま、大学での研究、教官としての教育へと入り込んだ」。そして、共通一次に始まる一連の入試改革、大学設置基準の大綱化に始まる大学改革、自己点検・評価、大学院重点化、最終的には大学の国立大学法人化と、改革続きの45年を経験して、「その改革あるいは変革が、本当に意味あるものとして積み上げられてきたのかどうか、心許ない。どうも、うわすべりしてきただけではないのかという思いがある」と、結論づけられる。なぜこうなったのか。「一つの原因は、大学が社会と同じ評価の土俵を作ったことにあるように思う。社会とのかかわりを社会と同じ評価軸にすることで、迎合しているのではないか。効率化、自由化、競争力などは、社会の方が進んでいるのは当然である。むしろ、大学独自の評価軸を作り、対社会の評価軸を作ることが、大学を問い、社会を問うこと、つまりは自己を問うことなのである。そこから大学の『格』や『見識』が生まれると思う」。)

 60年安保後の学生達

(福留)60年安保の評価を巡って、中央では、ブントが分裂することになりますが、九大ではどういう具合でしたか。

(大藪)2年ほど後の状況を考えると、ブント全盛の九大でも党派的な対立が潜在していたのだろうが、安保闘争が終わるまでは、表面化しませんでした。安保も三池も終わって、ブントが分裂していったとき、九大−福岡ブントの大半は革共同全国委(革命的共産主義者同盟全国委員会)に移った。その後、63年に革共同全国委が革マル派と中核派に分裂したときは、福岡では多くは革マル派、少数が中核派になった。他方で、社青同が結成された。

(桂木)60年安保の終焉で僕は革共同に行かず、木原義法さん(前出、北海道自治労にいく)、古川卓萬さん(当時経済学部3年)や森東洋彦さん(当時文学部3年)たちと一旦、マルクス主義研究会を作った。プロレタリアの自覚の論理過程もだが、歴史過程があるという議論だった。マルクス主義研究会は革共同に行かなかった連中が中心だ。そのあたりは二宮章一が『展望』(学友会雑誌)に書いている。(*二宮章一「共産主義者同盟解体に際して − 否定から肯定へ、肯定から否定へ」『展望』6号、1961年5月、所収)。筑豊のサークル村運動をしていて「工作者宣言」を出した谷川雁のグループとも一時は接触があった。(*工作者は「大衆に向かっては断乎たる知識人であり、知識人に対しては鋭い大衆である」。)

 このグループはアナーキストの傾向とも付き合いがあった。副島辰巳という西新町の博多人形工房雲月堂の人形師匠(絵描きとはちがう)。1923年に甘粕正彦に斬殺されたと言われる大杉栄・伊藤野枝の遺児(伊藤ルイさんとその姉さん)を支えたひと。遺児の2人は当時、工房で人形の絵を描いていた。2人を引き取った野枝の母(ルイさんたちの祖母)は生活費がなく副島が生活の面倒をみてきたのだった。(*伊藤ルイ『大杉栄・伊藤野枝へ ルイズより』講談社1985、松下竜一『ルイズ・父に貰いし名は』講談社文庫1985)

 マルクス主義研究会は61年春過ぎには田島司郎氏(前出)たちに励まされて社会主義青年同盟福岡地本へと合体して九大班になった。田島司郎氏は社会主義青年同盟福岡地本の初代委員長で、彼に社青同(福岡地本)の結成に参加してくれと言われた。当時僕は山本ノブヲというペンネーム、暫くしていっしょになった。(*山本ノブヲ「病蚕と民衆の飢え、あるいは現代詩人黒田喜夫によせて」(『展望』7号、1962年4月刊所収)には、次のような一節がある。「プロレタリアートの政治的統一のために、当面われわれの選択できる適切な青年政治同盟は日本社会主義青年同盟であろう」。「社青同に加入すべく当時のわれわれの組織(マルクス主義研究会)を解体した。」48、49頁。)

(大藪)ブントの周辺にいたが、ブントに加わらなかった人たちが社青同に結集していった。

(桂木)60年(昭和35)から61年(昭和36)一杯、全国大学生協連合会学生常任理事として殆ど東京にいた。当時の生協連の本部では、生協組織論をめぐる論争があって共産党内の構造改良グループから生協利潤は「民主的」という論法が出され、それに対して自分は生協への出資金も商業資本の機能は免れないとし、当時の蔓延していた赤字経営からの体質脱却を急務として「幻想を排して現実課題を」という主張をした。また当時の東京は文芸ルネッサンス、松竹ヌーベルバーグの盛りで、大島渚の映画と舞台「日本の夜と霧」を田中義孝さんと見に行った記憶がある(*『語り・自治体と公務員』田中義孝先生島根大学退職記念論集刊行会、川本町(島根県)、1998)。大藪さん初め、ブントのほとんどは革共同に行った。自分はまずマルクス主義研究会をやり、谷川雁、副島辰巳たちとも研究会をやった。そしてその後で政治戦線の選択として社青同になった。

 ところで60年秋、結局、二宮章一は進学しなかった2年留年すると除籍になる。二宮は「おれは革命にかける。10年後に革命的状況は必ずくる。おれは学問を捨てる」と、進学を拒否した。自分は、残り少なかった単位を取って、原野と2人が進学することになった。田中定(さだめ)教養部長が喜んで、白水事務長(本書の随所に登場)と計って、我々2人のために送別会(進学祝賀会)を開催してくれた。そこへ大久保正夫さん(図学担当教授、遺稿は本書所収)がやってきて、「二宮がここにおらん」といって、ぼくらの前で涙を流して悔しがった。二宮は数学が全学で1番だった。愛媛出身でそこですでに共産党を経験していた。2年浪人、守田さんと同じで筋金入り。除籍になって革共同・革マルのショッカク(職業革命家、略して職革)になった。千早の奥、香椎団地に住んで、わたしは舞松原で近かった。宮前の保育所に子供を預け奥さんが働いて、かれが僕の家に来る。1977年、僕が富山大学に行くまでつきあっていた。

(福留)60年安保後の九大の学生運動を簡単にでも語っていただけませんか。

(大藪)全般的に、党派間の闘争が激しくなったが大衆運動としては下降し、その局面は68年ごろまで続いたと言えます。そのなかでは、61年秋〜62年春の米ソ核実験反対運動。ソ連が核実験をした。共産党が平和の砦であるソ連の核実験には反対すべきでないと主張して、日本の原水禁止運動は分裂していったわけですが、革共同では明確に米ソ核実験反対を掲げて、教養部を中心に、安保以後では初めての大衆運動の組織化に成功した。このときには、山口勇君(経済学部院生、後に東京都立短期大教授、故人)や野見山哲夫君(工学部、私の後の九学連委員長)が、学生戦線の指導にあたっていた。この頃の女性では、村岡(現姓渡辺)富美子さんが目立って優れていました。それまでの学生運動では九大でも女性活動家は男性活動家のあとについていくのが普通だったが、男性に引けをとらない指導的活動家でした。彼女は、福岡県庁に就職した後で司法試験に合格し、現在弁護士事務所を開いています。

 なお、私のつれあいも普通の女子学生活動家だった。福岡県庁に入って初の女性部長に昇進しましたが、女性管理職登用の時代の流れに本人の努力、頑張りがマッチしたということでしょう。奥田県政になってからは、九大OB、OGを重用したいという知事の意向も加わったかもしれません。

(桂木)62年頃かなぁ、福岡でも学生運動は3派ほどに別れた。県学連は革共同、社青同、民青同で抗争を始めた。教養部でも党派的分裂があって、ブントは崩壊したと覚えている。後に68、69年のころ、第二次ブントの動きがあって、廣松渉さんが全国的にリードしたが、地元の九州では組織できなかった、というよりさせなかった。廣松渉さんが第二次ブントの求心力にしようと私の所に来たけれど、オコトワリ(自分に話しも来たけど断った)。反戦学連でまとまっていたノンポリ学生たちの幾人かは北九州の中小工場地帯に新天地を求めた。そのときこぼれて自衛隊基地突入を企てたとかで、逮捕されムショ生活を経験するひとも出た。

(井藤)(井藤和俊、六木松時代『展望』編集長、卒業後福岡県庁職員、定年退職後農業就業)。1962年(昭和37)から1968年(昭和43)までを、私の関係する範囲で記します。

 1962年(昭和37)「大学管理法反対闘争」、1963年(昭和38)「日韓会談阻止闘争」、1964年(昭和39)「佐世保ポラリス原子力潜水艦入港阻止闘争」などが当時の主な闘争課題でしたが、とくに、私(井藤)が入学する前年の「大学管理反対闘争」は九州学連の再建にもつながりました。西南学院大、福岡女子大、佐賀大、熊本大、鹿児島大などが結集しています。また当時の教養部自治会、九大学友会、九州学連には秋根、筑紫、田中氏ら錚々たるメンバーがいました。

 しかし1965年(昭和40)頃から、学内の党派間の勢力争いが激化して、教養部自治会執行部は社青同から民青同に代わります。また革共同中核派と革マル派の争いも激しくなり、広島大から中核派のオルグが派遣されていました。その頃狭間嘉明(1964年入学)が社青同解放派系の反帝学生評議会を立ち上げました。(1967年)九大学友会は教養部に引き続き、社青同系の崎山委員長体制でしたが、当時は学内の個別課題の闘争に集中していました。学生会館運営問題、医学部インターン闘争などが個別に戦われ、長崎大寮闘争支援などの交流もありました。

 1967年(昭和42)は、ヴェトナム戦争が激化し、世界的に反戦運動が高まっていました。死者を出す10・8羽田佐藤訪米阻止闘争は、多くの九大生に衝撃を与えました。翌年1968年(昭和43)1月原子力空母エンタープライズ佐世保入港阻止闘争では、九大教養部学生会館が、3派(革共同中核派、社学同、社青同解放派)全学連の拠点となり、九大からも多数の学生が参加しました。そして同年6月米軍ファントムジェット戦闘機墜落事故は、九大を反戦反基地の砦と化しました。以後は皆さんご承知のとおりです。

 六本松を巡る人々の縁

(服部)安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』(文春文庫)に「九大では第一分校、第二分校で、大坪、鎌田、森田ががんばっていた」とありますが、守田さんはこの人と同一人物ですか。

(桂木)そういう字も書いた(守田、ときには森田だった)。ペンネームは青山到。

(大藪)大坪さんは、まだ共産党とつながっていたけど、九大ブントにきて60年安保まではブントを指導していました。ブントが崩壊してから、一時期長崎造船の社研に身を寄せ、その後社会問題研究所に移りました。八丁さんもブントだったが、ブントが崩壊してから、たぶん嶋崎譲さん(九大法学部教授から衆議院議員・社会党)のオルグで社会主義協会へ行きました。

(服部)大坪康雄氏は(旧制)福岡高校同窓名簿には「日本社会主義センター議長」とあります。

(大藪)大坪さんのその後については、わたしはよく知りません。守田さんは、ブントが戦旗派、革命の通達派、プロレタリア通信派に3分解した後、革命的戦旗派をつくってブントから革共同全国委への移行に大きな役割を果たしました。だが、黒田(寛一)さんとはあわなかった。革共同が中核派と革マル派に再分裂してからは、中核派に属したが、けっこう中核派の路線に批判的だったようで、重要なポストにはつかなかったようです。古武士的で、筋金入りというか、節を曲げない人。90年代になって30年振り、何回か顔を合わせ話し合う機会がありました。

(桂木)島成郎記念文集刊行会編『島成郎と60年安保の時代一』(2002年2月刊)にも書いてある。(*同書所収、守田典彦「出会いと変革」には、「一つの政治闘争の敗北くらいで動揺することなく革命党を強化すべきだ」というリード文が付され、筆者紹介は次のように為されている。「1929年生まれ。49年九大第二分校・教養部理科入学。51年除籍。九州ブント議長。現在・共産主義者」)。守田さんは二分校を除籍になって、ショッカクになった。島成郎、田中義孝、そして自治労本部書記局に入った社青同福岡地本派の人たちの寄金で生活していた。72年には、一時は三池労組青年部をはじめ400人を擁していた社青同福岡地本は自己解体したし、自治労書記になった人たちにも定年がある。島成郎なども死んだ。守田さんを支援し寄金する輪が狭まった。田中義孝と守田とは党派を越えてつながりがあり、後に森苳夫(自治労本部書記、現在は定年退職)あたりが守田さんの生活支援をしているらしい。

(大藪)ショッカクになるのは福岡ブント活動家の方針だった。わたしも一時その道を進もうとした。しかし、現実の生活はものすごく厳しい。職革は食客につうじていた。有名な翻訳家の石堂清倫さんのように、文筆業で充分食えるように見える人でも、実際には彼を経済的に支える人たちがいたのです。守田さんも、生活は大変だった。そもそも、党組織の確立に基づかないショッカクは、労働(組合)運動などが発展していない、ツアーリズム専制下で職業革命家集団を主軸にしたボリシェヴィキ党路線の踏襲であり、現代の日本には不適だと思う。革マル派では、60年代の後半には、労働者細胞の形成を基礎にして、労働者同盟員20人で1人の常任活動家を支えるというルールが言われていました。

(桂木)社会主義青年同盟でも専従を抱えたし、総評系の組合書記に配していた。少し時代を戻すと、僕は1963年(昭和38)県庁に入った。就職の時、活動歴が問題になるようなことはなかった。高度経済成長期で、人手がほしいわけで、民間企業でも入れている。西福岡福祉事務所のあと、南筑福祉事務所に移った。そこで三池炭鉱の爆発に立ち会った。458人が死んだ。三潴郡、柳川と大牟田の間の郡部にも被害家族が結構いた。また大牟田市だけではやりきれないほど仕事が増えて、県が入って指導。過労で、バイクで走っているとき意識不明になった。気がついたら柳川市民病院のベッドのなか。転倒したとき耳をやられた。退職して、1965年九州経済調査協会の嘱託研究員。そこで嶌啓さん(六本松・嶌洪先生のお兄さん、後に熊本学園大学教授)、片松とみさん等に出会った。嶌さんとはその後経済の大学院で同期になったけど、10歳年上の方だった。後遺症の耳鳴りはあったからアリナミン注射を続けていた。1968年1月のエンプラ騒動の時、「三派全学連」って初めて知った。

 ところで、学生運動だが当時デモに1日も行っていない人はいないのではないか。1968年6月ファントムが墜落してから運動は拡がった。70年にかけての大学紛争はノンポリが中心(党派色が少ない)で、大学院や九大反戦(平井、堀内、越智、村岡さん)や反戦学連、教義のC(教養)共闘があって、石三(教養)、芦刈(農)、北島(工)さんなんかがリーダーだった。

 69年、六本松を党派が封鎖しているとき、学生部長だった奥田(八二)さんの研究室も封鎖された。彼はちょうど『三池闘争の記録(三池闘争25周年記念出版)』三池炭鉱労働組合編、1985を編纂中で、三井労組中央委員会等の記録綴りが研究室に置いたままだった。救い出す手はないか、と相談を受けた。倉田令二郎さんを通じて私ほか少数の学生が折衝に行った。1階2階は完全に封鎖されていた。2時間以内に作業を終えるという約束をとりつけて、縄梯子で3階にあがる。奥田研究室は4階の南側。奥田さんの部屋ばかりが汚されていた。川口武彦さんの部屋なんかはきれい。憎まれていたのだろう。資料を段ボール箱に詰めてそれを縄梯子で下ろした。反帝系の学生が加勢してくれた。全部の資料は救えなかったけれど、相当の数は救えた。校庭から外へは社会問題研究所の車が運び出した。その状況を大学院生が漫画にした。法学部の院生がいて、あとで福岡教育大の労働法の先生になった。紛争中は漫画ばっかり書いて、それを販売して、闘争資金にしようというわけで、売れて増刷までした。

 機動隊導入で70年運動が敗北の後の70年12月、大学構内に行けるようになった。夢本舗というプロダクションが斡旋してチャリティショーを記念講堂で企画して、高石友也、カルメンマキを呼ぶ。ロハ(出演料無料)でやってくれた。会場はぎっしり満員。「ときには母のない子のように」の唄に会場みんな涙でぼろぼろ、マキ自身が泣いて歌った。そのとき、自分は経済のプール制助手になっていた。法経の大学院生が助手と共闘して勝ち取った講座制改革の制度的成果であった。自分の研究室は学生たちの裁判を支える統一救対(救援対策本部)に貸していた。山田俊雄という工学部講師(のちに立命館大学教授)が手伝い協力してくれた。ショーもすごい黒字、漫画もすぐに売れた。保釈金も裁判費用もそうやって儲けた金でまかなった。紛争最中に司法試験合格研修を終えた美奈川、永野の2人に弁護士事務所を開設してやろうと基金を広く学内外から募るための人民法律研究会を結成し、福岡合同法律事務所を設立した。安広さん(文学部学生、後にコープ東部生協理事長など、故人)が統一救対から事務所専従になった。募金は出資者に後日全額返済された。

 今回、5・31ファントム墜落40周年シンポジウムを主宰したひとりだが、調べていて分かったことは、1973年になってもまだ教養部では授業料値上げや学生会館問題、医学部ではインターン問題が続いていた。医学部では、斉藤竜太さん(神奈川県勤労者医療生協院長)、松本文六さん(大分で医療法人理事長)たちが活動していた。中村哲さんも確か動いていたと聞いている。(*中村哲・ペシャワール会現地代表、1973年九大医学部卒業、84年パキスタン北西辺境州の州都ペシャワールに赴任、アフガニスタン難民の診療にあたり、八六年より水源確保事業を開始)。少し上の世代の青医連たちは既に地域医療へとキャンパスを後にしていた。58年の教養部執行部にいた頃から地道な活動家だった坪井医師も青医連の秋根さん(後に、東大病院医師)と小倉の美萩野にあった勤労者診療所へと移っていた。ほかのキャンパスでは、理学部における洞海湾汚染の分析調査活動そして青医連の兼崎医師たちの支援を受けたカネミ問題取り組みなどがあった。教育学部で森山沾一さん(院生、現福岡県立大学教授)たちの伝習館問題への連携、部落差別問題のカリキュラム化がそれなりに運動としてあったし、ほかに福岡のべ平連運動を支えた石崎印刷所周りには黒田光太郎さん(工学部院生、現名古屋大学教授)たちの水俣の公害問題への提携を軸にした科学者運動が始まっていた。そうした学生、院生、青年医師たちを励まし、あるときは戒めてこられ、九大の70年大学闘争が関東・関西と違って大きく軌道を外さなかったには、滝沢克己(文学部教授、辞職、故人)のRadix、金原誠(工学部教授、故人)のフンボルト大学論をはじめ良心に生きた教官たちの存在があった。感謝しなくてはならない。

(大藪)70年代からの新左翼党派運動で目立つのは、内ゲバです。60年安保闘争をともに闘い、九大ブントのメンバーで、卒業後は労働戦線で運動を担っていた者からも、内ゲバ襲撃をうけ殺された人や重傷を負った人がでました。内ゲバなんて、まして内ゲバ殺人なんて、左翼の頽廃の極みです。

(桂木〉解放派は、社青同九大班ではまったく異端だったが、後に多勢になった。解放派リーダー格の狭間嘉明は九大にいた人物で、中央に出て行って狭間派を率いたわけだけど、大藪さんが言うように新左翼の党派では目立つのは内ゲバばかりという状況になってしまったね。

(*伊豆・加藤登紀子の別荘で、狭間とともに革マル派からおそわれた石井真作も元九大生だった。このとき狭間は重傷で、石井真作は死亡。石井はそれ以前の九大箱崎キャンパスでの革マルとの内ゲバで、相手方に竹で目をつかれて片目を失明。当時教養部学生委員だった小野菊雄教授らが見舞いに行っている。比較社会文化研究院の横井豊教授とは津久見高校で同級。とてもまじめな性格だったという。)

(大藪)内ゲバで、新左翼党派運動は挫折というよりは破綻。わたしは内ゲバを推進した諸党派指導者たちに激しい怒りを覚えます。勿論、九大で内ゲバに走った後輩たちにも強い批判を抱いています。現在九大では大衆的な自治会運動は消滅して久しいようですが、セクトの活動家たちが全国の大学でも有数の激しい内ゲバを繰り返したことに、一半の理由があるのではないでしょうか。塩川喜信・渡辺一衛・大藪龍介編『新左翼運動40年の光と影』(新泉社、1999年)を、全国の心ある新左翼運動経験者に呼びかけて編集・出版しました。拙稿では、新左翼党派運動の歴史的意味、内ゲバ問題についての反省的総括を試みました。新左翼党派運動に携わった者は絶対に逃げてはならない責務だと思っています。

(桂木)なお六○年世代同士は、最近とちがって党派は別れていっても行き来があって交友関係は続いた。ぼく(社青同、72年解体)に関しては、二宮さん(革マル)ともあったし、大薮さん(革マル、後日離れる)ともあった。

(福留)桂木さんが勤務されていた富山大学教養部に大藪さんが新しく入ってこられましたね。

(桂木)富山大学は、学生運動では中核の拠点だった。そこに1984年に大藪さんは単身赴任してきた。九大出身で中核派指導部にいた高木徹君が、富山市内の喫茶店に自分(桂木)を呼びだした。高木は1つ下。ブントから革共同、それから中核派に行った人。九大ブントから革共同を経た活動家の多数は革マルだった。高木は中核派の幹部。警戒して1時間ごとに店を変わっていく。警察か革マルの襲撃を警戒して、3ヶ所の喫茶店を動いた。高木は篠原(浩一郎、前出)がヨット部から連れてきて、たちまち頭角を現した男。大藪氏が採用されるときの徳本正彦・九大教授(政治学)の推薦書のコピーを示した。高木は中核派にいて東京にいたけど、80年代半ば、富山は準拠点だからちょくちょくオルグにきては中核系をひきしめる。

(福留)白井正先生(教養部初代憲法担当教授)の息子さんの朗(あきら)さんはご存じですか。実は白井先生が亡くなったあと、その蔵書を、柳川まで頂きに伺い、六本校の図書館に入れたのです。白井コレクションのような形で纏めて配置することは無理だったけれど、分散して配置されています。そのなかに『安保闘争』という本があって、朗氏が「山村克」のペンネームで分担執筆しています。その再版本の扉に「1968・10・21 父上へ  朗」と署名してあります。かっちりした楷書体です。日大・東大闘争最中の国際反戦デー当日の署名です。

(大藪)彼は柳川の伝習館高校で廣松渉さんと同期、宮川謙三さん(後に九大経済学部教授、福工大参与、故人)も同期だと思います。(*小林敏明編『哲学者廣松渉の告白的回想録』河出書房新社、2006年刊、年譜では、「1950年、17歳」の項に「6月、朝鮮戦争とレッド・パージに反対する反米ビラを学内でまき退学処分となる」と記されている。それに関連して、廣松は「パージが本格的になったときに僕はクビで、白井君が無期停学になった」と述べている。)

 白井先生は奥さんが杉森女子学園の校長をされていた。朗さんは法政大学に進んで、黒田寛一さんの「探求」グループに入った。ブントを吸収した後の革共同では機関紙「前進」の編集長で革共同の幹部。革マルと中核への分裂後も、中核派の方で「前進」編集長を続けていた。わたしは60年代末には組織から離れたからその後のことは詳しくは知らないけれど、近年になって再会し理論研究で交流しています。90年代になってレーニンの民族理論を批判的に研究した書を社会評論社から刊行した(『20世紀の民族と革命 − 世界革命の挫折とレーニンの民族理論』1989年)。スルタンガリエフの夢と現実を追った山内昌之・東大教授の研究書が評判になったけど、白井さんもスルタンガリエフに着目していたようです。人柄としては研究者タイプ。白井さんは最近では急速に内部批判を強め、中核派指導部との対立が決定的になった。今では独立的傾向を強めています。

(福留)宇野弘蔵先生をものすごく敬愛していた渡辺克という先生がいました。一橋大学の出身ですが、宇野先生の『農業問題序論』に魅せられて、東大社会科学研究所時代の宇野先生に弟子入り。その縁で、私のいた農業経済の大内力ゼミに客分格で出て見えました。この渡辺先生が、法政大学のころ、白井朗さんが渡辺先生のゼミ生だったそうです。69年、わたしは東北大の助手に拾われたのですが、渡辺さんも法政から東北大に転勤されました。朗さんの宇野経済学の勉強の話とか、学生運動に打ち込む朗さんを心配して、白井先生が法政大学に相談に見えた話とか、仙台で聞かされました。九大教養部で初代の経済学担当教授だった岡崎次郎先生が、法政に移っておられたので、白井先生は、旧同僚を頼りに上京されたのでしょう。人の縁は、複雑ですね。

(桂木)ソヴィエト連邦の崩壊のとき、ぼくはロシアの地にいた。富山大学の定年を控えて大学のあり方、自分の人生を省みて、宮川謙三先生と一緒に、福岡工業大学に新しい学部をつくるために協力することになりしました。ぼくは2004年、福岡工業大学に戻ってきた。2005年春に宮川さんがなくなられた。宮川文庫は福岡工業大で引き取っている。彼の先生だった田中定さんの戦前の満州スクラップも福工大で引き取って電子ファイル化しています。

(福留)宮川先生が亡くなったのは、正確に言えば、2005年3月21日です。亡くなる何日か前に、白井朗さんが密かに最後のお別れに病院に見えて、しみじみと懐かしい話を交わされたそうです。お通夜の時、宮川夫人に伺いました。

 すこしながい話になりましたが、これでおしまいにしましょう。貴重な証言、ありがとうございました。