9条ではありません。95条です。この条項の意味するところを、ちょっと考えていただきたいのです。

第95条  一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。」

特定地域に関係する法律のことを言っていますが、ようするに、中央政府がある地域をどうこうできない、ということだと思います。中央政府が、国家の全体の利益──国策とか国益とかいうことばが使われます──のためにある地域になにかをしようとしても、そこの住民が「うん」と言わなければ、中央政府はすごすごと引き下がらなくてはならない、というわけです。ここでは、国家よりも地域住民の意向のほうが優先されています。しかも、「住民の投票」です。地方公共団体の首長の決定や地方議会の議決ではない、直接民主主義によって示される住民の意向がすべてを決する鍵なのです。

私はここに、日本国憲法に埋め込まれた保守主義を見ます。保守主義は徹頭徹尾、地域主義です。地域を、ふるさとを国家の上に置くのが、本来の保守主義なのです。国家がみずからのふるさとに不利益をもたらそうとしていると判断したら、いつでも国家に弓を引くのが、本物の保守主義者です。中央政府から「国策だ」と言われたら、「へへーっ」と恭順の意を表し、代わりに反対給付をすこしでも多く取ってくるのが得策だ、とするのが、いわゆる保守勢力のやり方だと思われてきた向きがありますが、それはじつは保守主義的でもなんでもありません。(保守主義については去年の5月7日に書きました。ご参考まで。こちらです)

原発推進が国策であっても、原発は電力会社が立地を決めたりすることであって、特別法によってなされることではありません。けれど、95条の精神はこの場合も踏まえられています。まず市町村議会が原発を誘致し、知事がそれを踏まえて認可する、という手続きがとられているとおりです。けれど、直接民主主義、つまり住民投票ではないので、首長や議会の意向と住民の意向が必ずしも一致せず、住民の反対の声は結局、切り崩され、押し殺されたケースも多々ありました。原発のあるところでは、「初めのうちは反対が多かったんだけどね」という声をよく聞きます。

いっぽうで、新潟県の巻町など、電力会社や地方政治家や地元有力者といった、原発誘致派の物量にものを言わせた多数派工作にも屈せずに住民投票を実現させ、原発を峻拒した自治体もあります。外からふるさとに襲いかかる大きな力をみずからはねのけた地域主義の、保守主義の勝利です。

中国電力が計画していた上関原発が、ついに白紙撤回されそうです。建設予定地の4キロ先に浮かぶ祝島の人びとが30年、反対してきたところに、このたびの東電原発事故が起こり、さしもの地元市議会も知事も、容認から反対へ、変わらざるを得なくなった結果です。祝島の人びとの、ふるさとを守ろうとする強い意志は、どんなに賞賛してもしきれません。祝島の人びとこそが、本物の保守主義者です。去年伺った時、週一度のデモに参加しましたが、いちばんよく唱えられていたシュプレヒコールは、「ふるさとの海を守ろう」でした。

ふるさとの海を、ふるさとを守る、これは、やはり何年も浜に座り込みを続けている沖縄・辺野古のおじい・おばあに共通した思いです。高江の道ばたにテントを張っている人びとの思いです。これら本物の保守主義者たちの勇気に励まされ、95条の精神を今一度かみしめることが、いま私たちには必要なのではないでしょうか。それが、美しい、かけがえのないふるさとを、数十年の単位で失わされてしまった福島の人びとの痛ましさを、もう二度と誰も味わわないことにつながると、私は思います。なぜなら、保守主義には悲劇を共有し、悲劇から学ぶ、という側面があるからです。それが、保守主義のモラルの源泉なのです。

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