音楽の哲学The Philosophy of Music(前半)@Stanford Encyclopedia of Philosophy

タスクと課された授業での発表などが一段落ついたので、おなじみのスタンフォード哲学百科事典http://plato.stanford.edu/の音楽の哲学The Philosophy of Musicの項目の前半を今回まとめておく。音楽の哲学という言葉はまだ日本において一般的ではないが、近年の英米系哲学、美学では盛んになっているジャンルである。私自身も何の研究をしているかときかれれば「音楽の哲学です」と答えるようにしていこうと思っている。だから当然、このスタンフォード哲学百科事典の項目に目を通しておくべきであろう。
さてこの「音楽の哲学」http://plato.stanford.edu/entries/music/はトリニティ大学のAndrew Kania(アンドリュー・カニア?)という研究者によって書かれている。私は研究室のコロキウムで彼のロック・ミュージックの存在論‘Making Tracks: The Ontology of Rock Music’ Journal of Aesthetics and Art Criticism 64 (2006): 401-14.を紹介したが、彼はロックに限らず音楽の哲学全体(あと映画の哲学にも詳しいみたい)を先行しているようだ(http://www.trinity.edu/departments/philosophy/kania%20cv.htm)。
彼の論文を読む限り、英米系の美学に関する幅広い知識を持ちながら、ロック音楽というポピュラー音楽の実践にも詳しいことが伺われる。ウェブサイトの写真からも彼が趣味としても音楽好きなのは伺えるし、上述の論文にあげられるロックの例がジェフ・バックリィピクシーズだったりするところも私としては世代的な親近感を感じる。
さて内容に入る。以下、全体の目次である。

  1. What Is Music?
    1. Beyond ‘Pure’Music
    2. The Definition of‘Music’
  2. Muscical Ontology
    1. The Fundamentarist Debate
    2. Higher-level Ontological Issues
    3. Scepticism about Musical Ontology
  3. Music and the Emotions
  4. Understanding Music
  5. Music and Value

全体の構成としてはまあ一般的であると思う。伝統的な哲学の分類として考えると、1定義であり、2は存在論である。そして3、4はほぼ認識論に相当して、5は価値論である。以前、私が紹介したStephen DaviesによるThe Oxford Handbook Of AestheticsにおけるMusicの章*1とかぶるところも多いが、全体的にはこっちは百科事典であることもあって、より中立的な感じがする。今回は、前半部である1と2だけを扱う。というのも音楽の哲学の大問題である情動に関する3は大変議論が込み合っておりちょっとめんどくさいし、今のところの私の関心は存在論にある。いづれまた後半を紹介する。
まず音楽の哲学とは、音楽の本質とその我々の経験についての根本的な問題の研究である。「心の哲学philosophy of mind」とか「科学哲学philosophy of science」に相当するものと考えてよいだろう。しかし科学哲学とかと違って、音楽のように芸術的実践に関わる哲学は、多くの人々がさまざまなバックグラウンドを持っているものであるから、アカデミックな学問に入る以前にそれらの問題のいくつかを考える傾向がある。さらに音楽は、他の文化よりも多くの哲学的なパズルを提起する。例えば絵画と違って、その作品は多様なインスタンス(例化物)を持ち、同時にそれらはその作品自身と同定されることはない。だから、「いったいその作品とは何か?」といった問題は絵画などよりも音楽のほうがいっそう難しいものである。さらに作品とは別に、その作品の演奏解釈interpretationの問題もある。
この「演奏解釈」の話は、我々は音楽を意味が染み付いている芸術だと思っている事実を示すが、同時に、劇などと違って純粋器楽は明らかな意味論的内容を持たない。これはまた、なぜ我々が音楽を価値あるものとしているのかという問いを提起する。多くの哲学者はこの音楽の価値について、それが情動をあらわす能力を持つことによって説明している。
このエントリは最近50年の音楽の哲学を主に扱っている。音楽の哲学の良い要約はAlperson1987:3-9を見よ。音楽の情動の問題はKivy2002:14-20を見よ。大陸美学にの論集はKearny and Rasmussen2001を見よ。

1音楽とは何か?

「純粋」音楽を超えて

この説では音楽の哲学が扱う対象のことが述べられる。タイトルがこのようになっているが、実際には音楽の哲学は主に「純粋pure」音楽や絶対音楽について考察することが多い。「純粋」や「絶対」ということによって意味されることは、いかなる非音楽的要素も伴わない器楽音楽であるということだ(テクストを持たない声がどう扱われるかは問題だが)。この理由についてKaniaは三つあげている。

  1. 純粋音楽はしばしば多くの難しい哲学的問題を提供する
  2. 純粋音楽の問題は難しいが、その解決はテクストを伴った音楽よりも簡単に評価されうる
  3. 純粋音楽の音楽の表現性musical expressivenessは、「非純粋」音楽の表現性においても重要な役割を果たす

要するに、議論の対象を純粋音楽に絞ったほうが簡単かつ本質的な議論ができるというわけだ。例えば、「ある音楽が悲しい」という現象は、テクストがないものの方が不思議であり、純粋音楽において解決すれば、テクストがあるものについても同様な解決が当てはまるだろうということだ。Kaniaは、ここで音楽の表現性の問題を例として扱っているが、純粋音楽を議論の対象として設定するこれらの理由は、音楽の理解や価値の議論においても当てはまるだろう。
しかしながら、グローバルな観点からみると、音楽の哲学が純粋音楽という全音楽文化においてはマイナーな部分に焦点を当てていることは不当に思えるかもしれない。ロックやヒップホップなどのポピュラー音楽には歌詞や歌といったものが不可欠であるし、音楽は映画やアニメの一部としても提供される。これらについて昨今では少しずつ取り扱われているが、まだまだ研究の余地がある(Levinson1987,1984 Kivy1988b,1994, Goehr1998など)

「音楽」の定義

ここでの議論はDaviesのThe Oxford Handbook Of AestheticsにおけるMusicと同じ議論展開である。まず音楽の概念の説明は普通、音楽は「組織付けられた音organized sound」であるというアイデアから始まる。そして、この定義を少しずつ狭めていく。まず人間のスピーチや非人間の動物や機械が作るようなものにも「組織付けられた音organized sound」という定義は当てはまる。次に、例えば「音楽は組織付けられた音の芸術である」という定義に変更する。しかしながら、これもまた広すぎる。なぜなら、多くの詩は組織付けられた音であるが、音楽ではない。
ロジャー・スクルートン(Roger Scruton1997:17)は、音楽の音、もしくは「トーン」は音楽的「力の場field of force」において存在する音であるという。しかし、これは音楽の音を音楽という言葉によって定義づけているから循環である。スクルートンは、音楽において我々はピッチがあるものとしてそれぞれの音を聞くと主張してその「力の場」を説明する。要するに、オクターブのある特定の構造化された分割(つまりスケール)においてある場所を占めるものとして説明する。しかしながら、音楽の音のすべてにピッチがあるわけではなく、ホワイトノイズを含むような電子音楽とかパーカッションがあるので、この定義は不十分である。さらにスクルートンの定義はリスナーの想像的なメタファーに依存するわけだから非常に主観的現象になってしまう。誰も聞いていない森の中でも、たぶん音楽はあるだろう。
ジェロルド・レヴィンソンはこの主観主義の問題点を、音楽を作るときの特徴を導入することで避けている。以下の三つの条件の下に、音は組織付けられるべきだと言う。1経験を豊かにして、強化する目的のために2音とのアクティブな関わりを通じて3第一として、もしくは重要な手段において、音として(Levinson1990b:273)。3によって詩は排除される。なぜなら詩は第一として意味論的内容を重要な手段とするからだ。しかしながら「音として」何かをみなすこととは何かという問題が残る。さらに彼の第一の定義は、レヴィンソンにしては非常に美的なものである。彼は芸術一般を美的aestheticなものとしてて意義付けることを避け、意図-歴史的な芸術の定義を行う。音楽についても彼は意図-歴史的な定義の可能性を示唆したが、伝統的な美的な定義のほうが音楽にはふさわしいと考えているようだ。その理由はミュージック・ワールドは一般的なアート・ワールドよりもより保守的なままであるからだ(1990b:274n. 8もちろんこれはダントーが言うような意味でのワールドである)。
しかしこのような定義が説得的なわけではない。場合によって我々は制度的、クラスター的、ハブリッド的な定義を提案することはできる(これらの定義についてはDickie1997, Gaut2000, Stecker1997, Adajian2007などを参照)。
これらの定義の種類を判定するのにジョン・ケージの「4分33秒」は役に立つ。それは「組織付けられた音」というのが音楽であるための必要条件か否か自身についても問いただす。レヴィンソンは、「4分33秒」や完全に無音の楽曲は、伝統的な楽曲が無音を含むことに注意しながら、この定義においてギリギリな場合である(つまり定義に当てはまる)と考えているようだ(Levinson1990b:270n. 3)。一方、ステファン・デイヴィスはケージは音楽の定義の限界を超えたと主張する。なぜなら、通常音楽を聞くときの環境音は作品のものではないと我々は考えているからだ(Davies1997a:24)。よってデイヴィスに従えば、ケージの楽曲は芸術であるが音楽ではなく、前衛のパフォーマンスアートである。また、もし「組織付けられた音」という定義を廃棄して、制度的な定義を採用するならば、ケージの楽曲は他の理由において音楽であると主張することができるだろう(例えばミュージック・ワールドにおいてそれが果たす役割云々)。

2音楽の存在論

音楽の存在論とは、存在する音楽のものごとの種類と、それらの間にある関係の研究のことである。もっとも議論されるのは、クラシックの作品の形而上学的本質とその作品の「正統的な演奏authentic performance」の問題である。最近では西洋、非西洋限らずクラシック以外の存在論も議論される。また音楽の存在論をすること自体の価値と可能性についての懐疑論もある。

根源的な論争

西洋のクラシックの伝統における音楽作品は唯一のものではなく、多である存在物である。というのは、それらが多くのインスタンス(パフォーマンス)を許すからだ。だから、この問題は「普遍論争」とよく似ている。以下、各立場を箇条書きで示す。

  • 唯名論:音楽の作品はスコアや演奏のように具体的な個物の集合である(Goodman1968, Predelli1995, 1999a, 1999b, 2001, Caplan and Matheson2006)
  • 観念論:音楽作品は精神的な存在物である(Collingwood1938, Sartre1940)
  • フィクション説:音楽作品はフィクショナルな存在物である(Davies2001:39-40)
  • 消去説:音楽作品など存在しない(Runder1950, Georges Rey2006)
  • 志向説:音楽作品は志向的な存在である(Ingarden1986)
  • 行為説:音楽作品は、すべての芸術作品と同じく、行為(アクション)である(Gregory Currie1989, David Davies2004)
  • 実在論:音楽作品は抽象的な対象である
    • プラトニズム(Kivy1983a, 1983b, Dodd2000, 2002, 2007)
    • 創造説(Wolterstorff1980, Wollheim1968:1-10, 74-84, Levinson1980, 1990c, Davies2001:37-43, Howell2002, Stecker2003:84-92)
  • Rohrbaughの説(2003)

唯名論は無駄な存在物を設定しない点では優れているが、音楽作品についての我々の言明が、演奏の集合についての言明へと完全にパラフレーズ可能である必要がある。実際には、我々はスコアとは異なった二つの演奏に対して同じ作品を同定することがあるが、この現象を唯名論はうまく説明することができない(ちなみにグッドマンはその立場から一音でもスコアと異なった演奏はそのスコアが記譜する作品ではないという極端な議論をした。これはwrong-note paradox(間違った音のパラドクス)として知られる。)
観念論は音楽や他の芸術作品を想像的な対象、想像的な経験として捉える。しかし深刻な反論が二つある。第一に、それは作品を間主観的にアクセス可能であるものとしない。つまり音楽を聴いている人と同じだけの異なった作品があることになる。第二にその説は、その作品の媒体をその理解とはイレレバントなものにする。例えば、録音物とライブ演奏の両者に同じ想像的な経験を持つかもしれないが、二つのメディアが美的に等価であるか否かは、未決な問題である。
フィクション説という言葉は私がここで与えた。要するに音楽作品などというのはフィクションであって現実的な存在物ではないというものだ。しかしながら、この説も唯名論と観念論と同じような問題を持つ。
フィクション説と似た代替案は、消去説eliminativismである。単純な消去説は、音楽作品の本質についての積極的な理論がないと主張することによって、提案される(Runder1950)。もうちょっと複雑な消去説は、音楽作品は「志向的な非存在intentional inextistents」であると主張する(Georges Rey2006)。つまり我々は、それらの存在を措定することなしに、それらについて明らかな指示のすべてを言い逃れすることができる。これは唯名論と観念論の間である。
さらにインガルデンはもうちょっと積極的な議論をする。これは有名な音楽作品は「志向的存在intentional existent」であるという説である。これは実在論と観念論の間の説である(Thomasson2004も参照せよ)。
行為説という言葉は私がここで与えた。これはデイヴィッド・デイヴィスは最近主張した説である。それ以前にグレゴリー・キュリー似たような説を擁護している。それは芸術作品は行為のタイプであるという主張だ。一方で、デイヴィッド・デイヴィスは個別の行為を作品とする。
すべての説に言えることであるが、音楽の存在論は、常に理論の利益とコストの間のバランスをとる必要がある。そうすると、我々の前理論的な直感の点で、行為説は非常に困難である。なぜならそれらが含意するのが、他の説と違って、ある作品のあるインスタンスは、パフォーマンスそのものではなく、コンポーザーによってパフォームされるいくつかの行為である。そのような我々の直感との食い違いを、行為説は説明する必要がある。
実在論は現在のところ、もっともポピュラーな見方である。なぜなら、他の説と比べて、それは音楽作品についての我々の前理論的な直感のより多くを尊重するからだ。一方で実在論は、多くの存在論的なパズルを持つ。なぜなら抽象的な対象とはなんだかよく理解ができないからだ。それでもやはり、実在論はその音楽の普遍論争において粘り強かった。
実在論の単純な見方は、プラトニズムであり、作品は空間にも時間にも存在しない、永遠不滅な存在物であるというものだ。
代替案として、創造説Creationismというものがある。それは、音楽作品は常に創造可能であるという我々の直感の点から、音楽作品は永遠不滅ではありえないが、人間の行為の結果として時間において存在するはずだと言う。
またGuy Rohrbaughは、音楽と他の芸術作品の新しい存在論的なカテゴリーを提案した。彼は、我々が音楽と他の芸術作品に帰属する物事の種類は、伝統的な存在論的理論によって説明できないと主張する。芸術作品と同様に「種、クラブ、人工物の種類、言葉」といったものも、伝統的な存在論では説明がつかないと言う。その新しい存在論的カテゴリーとは、スコアとパフォーマンスのような物理的な物事によって構成されるのではなく、「具体化したembodied in」歴史的な個物である(この説の批判はDodd2007:143-66を見よ)。
これらの音楽作品が所属する根源的存在論的カテゴリーについての論争は、「テクニカル」な問題である。つまり性質、因果、具体などの本質についての問題含みの一般的な形而上学である。一方、いくつかの理論家は、音楽作品は文化的存在物であると指摘した。そしてそれゆえに、その存在論的な身分を明らかにするためのその方法論は、一般的な形而上学とはまったく異なると指摘した(Goehr1992, S. Davies2003c, Thomasson2006)。

より高次の存在論の論点

「より高次」といっても別に抽象度が高くなるのではなく、具体性が高くなるので心配しないでほしい。根源的な存在論は音楽作品がどの存在論的カテゴリーに属するかを議論するが、ここでは、音楽作品とその例化の関係についての議論をする。
この点で一番なホット・トピックは、「正統的な演奏authentic performance」の問題である。これはおそらくもっとも議論された存在論的な論点であり、哲学者、音楽学者、ミュージシャン、オーディエンスも興味を持つことである。
この演奏の正統性についての論争において、広く誤解された二つのことがある。一つは、正統性は単純に性質ではなく、異なった「ベクトル」の関係であるという認識をする必要がある。あるものはある点でより正統的であるが、他の点においては正統的ではないという場合が存在する(S. Davies2001:203-5)。もう一つは、正統性を評価的な概念と前提することである。つまり正統的な演奏が良いと考えてしまうことが多いがそうではない。正統性というのは評価的な概念から切り取ることができるのだ。それは正統的な殺人が良いものではないという事実から明らかである(S. Davies2001:204)。つまり我々の価値判断は複雑である。
音楽において議論される正統性とは、その作品とその例化物の間の関係である。純粋音響主義者Pure sonicistsは、完全に正統的な演奏は正しいピッチと正しい順序を要求するだけで十分であると主張する(例えばKivy1988a)。音質音響主義者Timbral sonicistsは、これらのピッチがまたコンポーザーの楽器編成を反映しければならないと主張する(例えばDodd2007:201-39)。楽器主義者Instrumentalistsは、そのような音はそのスコアに特定された楽器の種類において生産されるべきであると主張する(例えばLevinson1990b)。
この論争は、音楽作品に本質的な、美的もしくは芸術的な性質の種類は何か、というものだ。音程とリズムとハーモニーで十分なのか、音色が似ている必要があるのか、楽器が指定されたものでなければいけないのか等等。またある面で、この論争は美学におけるフォルマリスト対コンテクスチュリストという大きな対立を反映する。フォルマリスト(もしくは経験主義、構造主義)は、もっとも重要な作品の性質は内在的なものであり、それが作られた歴史的で芸術的文脈に気づかないリスナーにアクセス可能であると信じる。コンテクスチャリストは、作品は強く創作の文脈に結ばれていると考える。
ステファン・デイヴィスは強力なコンテクスチャリズムを主張した。彼はこの正統的演奏の問題に単一の答えを与えることができないと言う。作品はある特定の規約の元で存在論的に「より分厚くthicker」かったり「より薄いthinner」ものでありうる(1991, 2001)。作品がより多くの正統的な演奏の性質を特定化すればするほど、その作品は分厚くなる。それゆえ、ある作品の楽器編成は柔軟であり、一方他のものは完全な正統的な演奏のために完全に特定の楽器編成が要求される(例えばロマン主義交響曲とか)。
何が正統的な演奏のために要求するかという問題以外に、そのような正統性が到達可能性であるのか、そのような正統性に価値があるのかという問題がある。これは大した問題ではないので割愛する。
さて以上のようなクラシックの演奏の正統性の問題とは異なり、間文化的、間時代的な存在論の問題がある。例えば、セオドア・グラシクは、ロックの作品のインスタンスは、演奏ではないと主張した。むしろ、その作品は、適切な装置における録音のコピーをプレイすることによって例化される(Gracyk1996)。一方、ステファン・デイヴィスは、ロックはグラシクが認識するよりももっとクラシックに近いと主張した。つまりロックの作品とは演奏のための作品であるという(Davies2001:30-6)。しかしながらKania自身はグラシクを擁護できると考える(Kania2006)。これは私がコロキウムで紹介した議論である。
さらにジャズの存在論はより多くの問題がある。それは即興の本質についてが中心であり、特に即興と作曲の間の関係が議論される(Alpeson1984, 1998, Valone1985, Brown1996, 2000 Hagberg1998, Gould and Keaton2000, Steritt2000, Young and Matheson2000)。ジャズに限らず、べての音楽は先に作曲された作品の演奏ではないということは重要なポイントである(Wolterstorff1987:115-29)。しかしながら、即興は普通、先に作られた作品においてなされるということには注意すべきであり、完全な即興はかなりのレア・ケースである。
いくつかの者は、即興と作曲には際立った違いはないと主張した(Alpeson1984)。他の者は、すべての演奏は即興を要求すると主張した(Gould and Keaton2000)。しかしなお、他の者は、即興という概念を音楽の性質のある種類において制限する。つまりそれは「表現的」なものではなくて、「構造的な」もののである(Young and Matheson2000)。またジャズ作品は存在論的にクラシック作品のようだが、それらはより薄い傾向にあり即興のためのより多くの余地を残しているとも主張される(Gould and Keaton2000, Young and Matheson2000)。さらに、ジャズはその演奏がそれ自身作品であると主張する者もいる(Alpeson1984, Hagberg2002, S. Davies2001:16-19, 2003)。またジャズにおいては、作品は存在せずに、パフォーマンスだけが存在するという意見もある(Brown1996, 2000:115)。
以上のようにジャズと即興に関する存在論はかなり複雑で難しい問題である

音楽の存在論についての懐疑論

二人の著名な芸術の哲学者は、最近、音楽の存在論に対する懐疑を投げかけている。アーロン・リドリー(Aaron Ridley2003a, 2004:105-31)とエイミー・ソーマソン(Amie Thomasson2004a, 2005, 2006)である。これらは音楽の存在論を行う際に、その正当性を主張するための反論として機能する議論であるが、メンドクサイのでここでは割愛する。Kaniaは基本的に存在論の意義を認めているし、私もそのような議論が無駄ではないと思っている。私にはこの懐疑論は、むしろ音楽の存在論の意義を逆に明らかにしているように思われる。それゆえ、音楽の存在論を語るときの導入としては使えるのであろう。