明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(162)低線量被曝とぶらぶら病2(肥田舜太郎医師の講演より)

2011年06月19日 19時30分00秒 | 明日に向けて6月1~30日
守田です。(20110619 19:30)

肥田先生のお話の続きを送ります。今回で完結です。
前回は、原爆が破裂した時のお話でした。広島上空に火の玉ができて、やがて
黒い雲が広がるように襲ってきた話が、リアルにされていましたが、この8時15分
という時間帯は、実は人々が出勤で動いたり、朝礼や体操で外に出るなど、
広島市民が一番外に出ていることが確実な時間なのでした。

アメリカ軍はこの時間帯を狙って、原爆を投下したのです。もちろん、原爆の
人への打撃力を確かめるためにです。このため、多くの人がもろに熱線と放射線
を浴びてしまった。これらの人々は、治療のほどこしようがなく、次々と亡くなって
いきました。

しかしその後、長い間、先生が向かい合ったのは、「原爆ぶらぶら病」など、今に
いたるもきちんと医学的に解明されたとはいえない、被ばく者たちの病、苦しみ
でした。低線量の内部被ばくの影響です。

以下、肥田先生のお話を続けてお読みください。

*************************

3 広島での医療活動とぶらぶら病
http://www.youtube.com/watch?v=vX11MKzs7Ug&feature=related

私は小学校に行きました。道路と小学校の境がなくて、かなり大きな運動場の
向こうに崩れ落ちた校舎がある。そこに立ってみると、大きな校庭で一目見て
5000人ぐらいいる人間が、全部、横になって倒れている。たまに座っている人が
何人かいました。

それで見ていると、頭が動いたり、手が動いたりしている。これは生きているいる
人です。まったく動かなくなった人も見える。その中へ、頭の中で、俺は医者だと
思っている人間が、聴診器もなくなって、素手で何もなしでそこで突っ立っている。
どうしていいか分からない。

そうしたらたまたまよその分院にいた軍医が、僕を含めて4人集まった。「どうする
よ」「どうしようもないよ、これは」。でも広島中走り回ったって病院もなければ薬も
ない。ここでどうにかしようということになった。

それでさすがに村長などがいるのですよ。集まっているのだけれど、どうしようも
ない。考えがつかない。ゴーっと言う音がして、何が広島に起こったか分からない。
キノコ雲をみてませんからね。大きな風が吹いて、ゴーっといったら、村の家が壊れ
だした。村の人は家が心配だからそこで何かをやっていた。

村の幹部だから、何軒の家が潰れたとか、人が死んだとか聞くし、何かをしなけ
ればならないのだけれど、何をしていいいか分からなくてうろうろしてちょうど私が
帰ってきたので、「何とかしてつかあさい」と言う。私もどうしていいか分からないの
ですが「今、私は広島のそばまで行ったけれども、今からこの村に何万人か逃げて
来るよ。あんたがたは嫌でも面倒をみなくてはならない。こんなところでおどおどし
てないで、村の人を集めて迎える準備をしろ」と言いました。

それから私が動かなくなった人のそばにいって確かめて、この人ダメと指示を出す
と、村の人がついてきて担ぎ出すという仕事から始まった。これは残酷な仕事です
よ。そばに寝ているひとはね、軍医が来たと言うのが分かるから、とにかく痛みを
とってくれとか、治療をしてほしいとか思ってみんな私を見る。本人は起き上がって
これないからね、寝たままに睨みつけるわけです。それを目をそらしながら、向こう
にいる動かなくなったところにいって、脈をとったり聴診器をあてたりして、辛い思い
をしました。

こんな話だけをしていると終わってしまいますが、そういう状態が続いて3日目の朝
に、四国や九州の軍隊から、軍医さんがおそらく全部の人数で200人ぐらい、看護
婦をたくさん連れて、薬を持ってきました。私の村も患者が集まっていますから、
そこへ27人の若い軍医さんが来てくれた。ところがこの連中は、僕と同い年が僕
より若い人たちであまり臨床経験のない人たちだった。

連れてきた看護婦は100人ぐらいでしたから、それが村に散って、症状の重い人を
見つけては、大きな声で軍医を呼ぶのですね。「軍医どの熱が出てます」と言って
持ってきた体温計で測ると39度とか40度とか出ている。こんな熱は、広島では
チフスかマラリアしかみたことがない。

広島はチフスの有名な伝染地なのです。生ガキをだべるので。あれで伝染するの
です。なのでチフスと聞くとぞっとするのです。ここにもしチフスが感染すると全滅
ですから。だから新しく来た人に飛んでいって欲しいのですが、この人たちはチフス
をしらないから、結局、僕が飛んでいくのです。それでチフスじゃと思ってみますと、
チフスではなさそうなのだけれども、症状が、まったくみたことのないものなのです。

熱が出ている。普通のときには絶対に出血することのない瞼から血がだらだら、
だらだら垂れる。顔をやけどしているのですよ。でも目の中はやけどをしている
はずがないし、見てもやけどをしていないのに、目の粘膜から血が出る。鼻から出る、
口から出る。熱を出した患者が出血をして寝ているわけです。

熱が出ているなら扁桃腺が腫れているだろうと、口の中を見ます。指を入れてあけ
させて覗き込んで見る。普通口の中は、桃色か赤い色ですね。ところがその人は
真っ黒で、口の中の粘膜が腐っているのです。扁桃腺も真っ黒になっている。第一、
顔を向けてじっとしていられないぐらい臭いのです。腐敗していますから。そんな
症状は今まで見たことが無い。

それでああだこうだやっているうちに、やけどをしていないきれいな肌が残っていま
す。そこに紫色の斑点が出て来る。これは臨床経験の深い医者だと心臓の病気で、
死ぬときにあらわれることが分かります。他の病気ではどんなに重症になってもこ
れは出ないですね。心臓の重症の病気では死ぬ前に必ず出るんです。死斑という。

これを見たことがある医者はそうないないのですね。知っている医者が見れば分か
るけれど、知らない医者が見れば、何のことか分からない。そんな風に変わった症状
で死んでいく。最後に頭の毛が抜ける。


みなさんも抜け毛の経験はあるでしょうが、手で触ったら、触ったところが全部抜け
てしまう経験はないと思います。大勢の人が手で頭をなでるとそのまま毛が抜けて
しまう。あと1時間も生きてないだろうという重症の女の人が、息を振り絞るような
声を出して「私の毛が」と泣きだすのですよ。僕は女の人にとって、死ぬ間際まで、
自分の毛が無くなることがあんなに悲しいことだということを、始めて知りました。

つまり普段僕らが見たことが無い、出血と、脱毛と、高熱と、死斑と、口の中が腐る
と、そういう症状が5つ揃うと、死んでしまう。こんなことは生まれてから見たこと
がない。教科書にも載っていない。初めてあそこで経験したことなのです。原因も
もちろん分からない。2,3日して原子爆弾ということは聞きました。しかし原爆が
どのようなものか分からない。そういうことで当日から、原因が分かるまで、30年
間かかった。


東京へ帰って、東京に来た被ばく者を診て、埼玉にいって、関東平野からお金が
あってこれるような人は、みんないっぺんは僕のところへ来るのです。あそこに
行けば、話をしてくれると。よそへいっても何も分からないからそんなことは関係
ない。今、お前は血圧が高いからそれを診るというような話になってしまう。

原爆の時から、広島の時から話を聞いてくれて、分かるように説明してくれるお医者
さんがいるということで、長野や新潟、群馬、宇都宮、千葉、神奈川、東京から毎日、
毎日、一杯来ました。その説明だけで嫌になっちゃってね。そんな仕事をしてきた
のです。

最初にこの病気が何かということを教えてくれたのは、アメリカで世界的に有名な
スタングラスというピッツバークという町の大学の放射線科の医者でした。これは、
ちょうど1950年頃から、核実験をうんと始めたのです。核実験で放射性物質があがり、
これが雨に含まれると黒い雨になるのですね。それでみんな逃げる。当たると病気に
なる。広島の経験上、それは知られていた。ところが雨の粒にならない埃だけの
放射能は目に見えない。それを吸い込んで病気が起こる。埃を吸ったと言うのは
誰も気がつかない。

アメリカの兵隊が核実験で爆発させると、・・・アメリカの国は本当に残虐な国だと
思うのだけれど、自分の大事な兵隊を試験場の周りに塹壕を掘ってその中に待た
しておく。そして爆発して大きな火の玉が出来て、大変な状態がおこって、しばらく
すると降ってくるじゃないですか。

周りで見ている人間には、放射線はすぐにやってくる。何もないのでね。あとは上
から黒い雨は降らないで、埃だけが落ちて来る。その事態になると、今度の爆弾は、
爆発後、戦場で何分後に影響を受けるか、あるいは突撃ができるかということを、
生身の人間を使って実験したのです。

それに使われた兵隊こそ、本当に迷惑ですよね。目をつぶっていろ、後ろを向いて
いろ、鼻をつまんで息を止めていろ。それでOKと言ったら目をあけてよろしいと。
それで演習場の放射能の中へ突撃したりした。みんな被ばくですよね。


4 医者がわからない「ぶらぶら病」
http://www.youtube.com/watch?v=G5qq4CJxBRc&NR=1

広島・長崎の被ばく者が、同じように、直撃を受けないで、後に出たものを吸いこん
で出てきた病気が、ぶらぶら病という病気なのです。ぶらぶら病という名まえは
医者がつけた名前ではない。これは家族がつけた名まえなのです。見たところ、
何でもない。

「とうちゃん、働いてよ」。それじゃあというので、つるはしをふるい出したら、
30分ともたない。「俺はもうとてもかったるくて、生きてられない。先に帰るからな」
と先に帰って、座敷に寝てしまっている。そういうことが続くから、家族や本家の
ものが、あいつは広島にいって怠け者になって帰ったんだ、医者に診せろということ
で、診るけれども病気らしい兆候は何もない。本人がかったるくて動けないという
だけなのです。

それで怠け病というのは具合が悪いから、ぶらぶらしているからぶらぶら病という
ことになって、これが広島・長崎を中心にますます広がって、僕らにも聞こえてくる
のです。

僕の場合、一番驚いたのは、だるいというのは自分も経験があるから、その点の
だるさは分かるわけです。ところが初めてきた患者が、受付では黙ってしまって
言わないのです。被ばく者は差別されていますから。ところが僕の前にくると
「広島におられた肥田先生ですか」と聞くのです。「そうだ」というと、安心して、
「私も広島にいた被ばく者です」と、初めて言うのですよ。

初めて来た患者が、どうしてきたのと聞くと、かったるくて動けないというのです。
それでどんな医者に診てもらったのとか聞いているうちに、この男が先生ごめんな
さいといって、私の机の上で頬杖を突きだした。失礼ですよね。えっと思っていたら、
椅子から床へ降りてあぐらをかく。

ごめんなさい。椅子に座っていられませんといって、そのうち横になってしまう。こう
いう形でしか私は起きていられないのですというのです。「そんなにだるいの」という
と「そうなんです」という。それで初めて僕はぶらぶら病の患者のだるさという程度が
分かったね。初めてこれはただことではないと思いました。

広島にいたときも、戸坂(へさか)村の避難所がやがて閉鎖になりました。学校も
始まるし。それがちょうど12月の半ばだった。村の人は悪いけれど、病院のお医者
さんと患者さんでどこかへ行ってくれというのです。どこかへ行ってくれといっても、
広島の中は何にもない。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、行くところがなくて
困っている。どこでもいいからこれだけの人数が入れて、病院の仕事ができるところ
を手配してくれと。

それで初めて山口県の柳井という市の郊外にある古い軍隊の建物をもらって、私
たちは100人を連れて行った。とことが山口県に逃げていた被ばく者が何万人もいて、
国立病院ができたっていうんで皆くるわけだ。たちまち満員になってしまってね。
医者がたった6人か7人のところに3000人から4000人が来て、まだできていませんと
いったって、勝手に布団を持ってきて、横になっちゃう。暖房がないから、そこら辺の
農家から七輪をもらってきて、そこら辺の古材をもってきちゃ、病室の中でたき火を
している。ボウボウ火の出るね。

そういうところで僕が仕事をしていたら、ぶらぶら病が入院してきて、そのまま寝た
きりになってしまう。すると朝から晩まで看護婦がいかなけりゃならない。人手は
取られるし治療法は分からないし、それで翌朝になって、看護婦が行ってみたら、
死んでましたということになる。そういうのを何例も診て、一体何の病気なのか
ということが30年間、私の頭の中にあった。


東京に出てきてから、東大の先生とか、大学の教授に患者を送ったりして教えて欲し
いと言っても、まともな返事をくれた人は一人もいない。本当なら、こういう病気は
私は診たことがない。申し訳ないけれど私には分かりませんというのが、一番、正直
なのですね。そう書いて欲しかった。

ところが自分の経験ではこれは病気ではないということが帰ってくる。こんな乱暴な
話がありますか。自分の知らない病気はこの世の中には一つもない。あるいは全部
俺は知っているというのが大学教授なのですよ。

もう腹が立ってね。お前は人間なのかと思いましたよ。実際に苦しい人間を紹介状を
つけて、お金もかかって、ムリムリで家族が病院まで連れていくわけじゃない。それで
何時間も診てもらって、やっとこさ診てもらったら、病気じゃありませんなんて、
とんでもない話です。だから私は偉い先生は、ぜんぜん信用しないのです。

そういう人間が何人もいるわけだ。僕はその先生からもらった、病気じゃありません
という診断書をとってありますよ。生きていたら持っていって、お前、こんなことを
言ったのだぞと言ってやりたい。まあ、生きている人は一人もいませんけれども。
今生きていたら100歳以上ですので。

まあそういうわけで、アメリカに行って、なぜアメリカに行ったのかというと、国連
に訴えに行こうということになって、昭和50年、1975年に日本の国民代表団が、
アメリカとソ連、あるいはよその国の、核実験をやめて欲しいと、その署名を集めて
国連に行ったのです。世界中の医者を集めて、日本でシンポジウムを開いて、日本の
医者にどうしたらいいか教えてくれという要請状を持って、私が日本の医者の代表と
なって行ったわけだ。

最後に話を聞いた国連の事務総長が、日本の代表団の要求はよく分かった、すぐに
国連の会議にかけたい。しかし残念ながら、ドクター肥田の出されたシンポジウムの
要求は受け取るわけにはいかないと断られた。

びっくりして理由はと聞いたら、私が行ったのが1975年、その7年前にアメリカ政府
と日本政府が、合同で、広島・長崎の医学的影響についてというものを、23年目に
初めて出した。

これは全部、アメリカのABCC(広島原爆傷害調査委員会)が作った資料だった。
広島でアメリカが来て治療をするらしいということで、みんなおしかけるじゃない。
中には大八車に乗っていった人もいる。そうしたらどこで被ばくしたと聞かれて、
では爆心地から2.5キロだとかいう話を聞いて、直接頭から浴びた人は中に入れる
わけです。

遠くの方で、翌日入りましたとか、午後に市内に入ったとか聞くと、ここはそういう
方たちは扱わないのですということで帰されてしまう。だから彼らは内部被ばくの
問題はぜんぜん診てないのです。だから遺伝の問題にしろ何にしろ、何にも報告書
を出していない。

アメリカが世界に発表するものは、全部、このアメリカのABCCがやった実験の
データばかりなのです。世界中の人が、これが原爆の被害だと思っているのは、
ほとんど頭から直接浴びた人たち。僕らから言わせるとほとんど即死した人たちの
症状なのです。

それをもってこれが世界の人が初めて受けた核兵器の被害なのですということに
なっているので、どこの国の医師会も医学界もそれを金科玉条にして勉強している。
日本の医者の報告はぜんぜん向こうに渡らない。だから私が向こうにいって、何人
かの医者と話をすると、みんなびっくりするのです。どうしてお前のところの政府
は、そういうことをやらないのか。

占領されている間はそういうことができなかったし、今、安保条約で日本の政府は
何一つ自由にできないんだ。特に核に関することは全部アメリカのご承知をいただく
という仕組みになっていると話をするとびっくりするね、みんな。

それを私は、国の数にすると17ぐらい。同じ国で何度も行っているところもあります
から、ドイツとフランスと英国と、この国はだいぶ、政府のところまで私の話が
通っているし、私が入っている映画とかそういうものが世界中に回っていますから。
そういう点では、うるさいとは思いましたけど外国のテレビが来て、インタビュー
して私の話をビデオにして持って帰って、一番世界で信用のある英国のBBCと
いう放送局が作った私の番組が何カ国語にも訳されて、世界中で上映して歩いて
いるね。


今、言っているのは「当面は心配ない」ということですね。ウソじゃない。確かに
当面は心配はない。だけど本当は何十年先のことは分かりませんよと言わなくては
いけないのだけれど、そこを言うとみんな分かってしまうから、言わなくてね。

だから後、一か月もたつと、この辺もかなり放射線が、普通よりは高まります。今、
100ミリシーベルトとか、1000ミリシーベルトとか言ってますね。1ミリシーベルト
なんてのは、なめたっていいんだと言うような感覚ですよね。僕らから言わせると
1ミリシーベルトがみなさんの幸不幸の分かれ目になるのです。

以上

*****************

次回は、低線量被曝がどのような影響を人体にもたらすのか、肥田先生が解明され
てきた内容をご紹介します。

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4 コメント

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文字化ありがとうございます! (鈴木裕子)
2011-06-20 10:22:20
肥田先生の講演録画を保存していたのですが、なかなか続けて見られませんでした。文字化して下さって助かります。以前、テープ起こしをしたことがあって、それがどれくらい時間がかかって大変か少し知っています。ほんとうにありがとうございます。次回の分もお待ち申し上げています。
コメントありがとうございます。 (守田敏也)
2011-06-21 09:18:46
鈴木様

文字起こしの大変さを知っていただいていてありがたいです。ただ肥田先生の発言の起こしは楽しい仕事でした。

まだまだ頑張ります。よろしくお願いします。
有難うございます (kusukusu)
2011-06-23 01:34:16
書き起こし、有難うございます。この肥田先生を撮影をした者です。こちらがしないといけないことをして頂いて・・。引き続き、肥田先生だけでなく、関連する撮影を続けています。いずれ作品にまとめようと思っています。
撮影ありがとうございました! (守田敏也)
2011-06-23 10:49:58
kusukusu様

大変、嬉しいコメントをありがとうございます。光栄です。
素晴らし撮影と映像でした。これをアップしたとたんにアクセスが急上昇し、多くの方から、「映像も見ました」というコメントをいただきました。今後の作品にもとても期待しています。

よろしければ私のアドレスにもお知らせなど下さると嬉しいです。
morita_sccrc@yahoo.co.jpです。

今後もよろしくお願いします!

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