It tolls for thee.

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。


およそ2カ月ぶりのブログですが、いぜん元気にやっております。
留学の出願が本格的に始まり、生活がいよいよテンパり出し、ブログの更新が滞っておりました。
年末年始は実家に帰省したものの、出願準備に追われ、朝から晩まで英文とにらめっこ。
ひとまず4校出願して、あと残り4校出す予定。
3月末には一通りの結果が出ると思うので、その頃に会って表情がこの世の果て的な感じだったら、察してやってください。
逆にドヤ顔だったら、それもまた察してやってください。


今年の抱負的な感じで、ちょっと引用を。

For Whom The Bell Tolls

For Whom The Bell Tolls

ヘミングウェイ『誰が為に鐘は鳴る』(1940)作中に、タイトルの由来にもなっているJohn Donneの詩が出てくる。

"No man is an island, entire of itself; every man is a piece of the continent, a part of the main. If a clod be washed away by the sea, Europe is the less, as well as if a promontory were, as well as if a manor of thy friend's or of thine own were: any man's death diminishes me, because I am involved in mankind, and therefore never send to know for whom the bell tolls; it tolls for thee."

〈大意〉
人はだれしも孤立した島ではなく、それ自体で完結してはいません。あらゆる人は大陸の一かけらであり、本土の一部分なのです。もし土くれが海に押し流されてしまえば、ヨーロッパはその分小さくなります。ちょうど岬が流されてしまったり、あなたの友だちやあなたの土地が流されてしまうときと同じように。私は人類全体に参与しているのですから、誰ひとりが死んでしまっても私はそれだけ小さくなってしまいます。だから、教会で人の死を告げる鐘が鳴っていても、あれは誰のために鳴っているのかと問わないでください―あの鐘はあなたのために鳴っているのです。

実のところ、この引用句の政治性を批判することは容易だろう。
例えば、"man"や"mankind"で人類全体を表象しようとすることは男性中心主義的。
"a promontory"は、岬だがここではペニスの隠喩になっていて、男性の性機能喪失の恐怖を刻印している。
"the continent"があくまでも"Europe"なのは、西洋中心主義のあらわれ。
ひいては、この詩は植民地を西洋列強が支配しようとするときに、その暴力を美学的に隠蔽する装置として機能してきたのだ、などなど。
多分そういった批判をする先行研究は一定数あるだろうし、そうした批判にはそれなりに正当性も意義もあると思う。


しかしながら、この詩に書かれているある種のユートピア的ビジョンには、またそれなりに今日的意義があるのではないだろうか――とりわけ、個の原子化がすすみ、某新聞が年末に「弧族の国」なんて特集を組むご時世には。
自分が何かの一部であるということは、確かに一方では自由の束縛の受容、権力の肯定などを意味するだろう。
だが他方で、自分をより大きな文脈に位置づけることで生まれる豊かさや、それがもたらす新しい自由もある。
Donneの詩の魅力は、自分を他の「個人」(例えば恋人、家族など)と結びつけるのではなく、むしろ「全体性(totality)」の内に位置づけている点にこそある。
"any man's death diminishes me"、この有機的な連帯を想像できるか。
今日散見される「もはや社会なんて存在しないので半径3M以内の愛が全てっス」という発想は、究極的には社会の分断や階級格差の拡大を抑止できず、むしろそれを肯定してしまうかに見える。
自分の日々の営為を、全員で作り上げる一つの大きなプロセスの一部として思い描く、そうした社会的想像力にはまだ意義があるのではないか。
ポジティブな意味での「社会的なるもの」の存在意義を、もう一度考える価値はあるのではないだろうか。
そうした想像力こそが、鐘をより広い人たちに向けて、より深く鳴り響かせるだろう。


・・・みたいなことを今年の抱負にしたいと思ったけど、風呂敷広げすぎ感全開ザンス。
偉そうなこと言わずに、ちゃんとバイトして税金払って研究するっス。


今年もどうぞよろしくお願いいたします!