Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

焼き場に立つ少年

2007-03-09 16:08:12 | 日本
昨夜、一枚の写真を見て衝撃を受けた。

この写真は、原爆が落とされてまもなくの1945年9月、廃墟の長崎で写されたものだ。撮ったのは米空爆調査団のカメラマンとして日本を訪れた、ジョー・オダネル軍曹。

以下は、彼がこの写真を撮ったときの回想インタビューからの引用だ。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺め
ていました。すると白いマスクをかけた男達が目に入りまし
た。男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をし
ていました。荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の
中に次々と入れていたのです。

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。お
んぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は
当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の
様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼
き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも
裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目
を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠
っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。
白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひも
を解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んで
いる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持
つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえま
した。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な
夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を
赤く照らしました。その時です、炎を食い入るように見つめる
少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年が
あまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、
ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が
静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を
去っていきました」

この写真についてこれ以上の説明は必要ないだろう。

少し調べてみたが、原爆被害を撮ったもののなかでも、この「焼場に立つ少年」はかなり世に知られた写真のようだ。中学の国語の教科書にも使われていたらしいが、僕はどうして今まで知らなかったのだろう。

僕が報道写真の世界に足を踏み入れるきっかけとなったベトナム戦争の写真はよく見ていたのだが、原爆写真はそれほど多く見た記憶がない。考えてみたら、僕は長崎には行ったことがないし、広島にも修学旅行で一度訪れただけだ。

報道カメラマンとして、すこし恥ずかしくなった。。。が、遅ればせながらでもこの写真に出会えたことは良かったと思う。

間違いなく、この直立不動の少年の表情は僕の胸に一生焼き付いて残るだろう。そういう一枚なのだ。

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32 コメント

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脳裏から離れない (jojo)
2007-03-10 09:15:02
この少年の姿勢。
規律正しく順番を待つ。
くいしばる唇。
この幼児を失い、彼にはもう家族が残っていないのかも知れない。

写真は知っていましたが、回想インタビューは知りませんでした。
何を書けばいいのかわかりません。
後ほど、トラバを頂きます。
Unknown (NOWAR)
2007-03-10 11:11:47
高橋さんそれは恥ずかしいことです。
この写真は日本人として誇りを持つべき写真なのです。
Unknown (Kuni Takahashi)
2007-03-10 13:12:53
「誇りを持つべき写真」というのは理解できません。どういう意味でこう言われているのでしょうか?
今君は (je t'aimer rock)
2007-03-10 17:42:16
此の少年は
今世に居ないかも知れませんが
どんな心持ちで世を過ごしたんだろう

こんな「記録」の一つ一つが
ボタン一つで自分は危険無く簡単に殺傷してしまうモノがどれだけ浅はかかを物語ってると思います
そして危険を侵して迄戦わざるえない最前線にいる人達の葛藤も見えてきますね。
有り難う御座居ました
私も (シゲ)
2007-03-10 23:50:34
私もこの写真のことを知りませんでした。
そしてここでそれを知ることができて良かったと思います。
どうも有難うございました。

国際社会や現在の社会事情だけではなく、
自分自身の生き方なども考えるきっかけになる写真であると感じました。
初めまして (うさ)
2007-03-11 01:43:28
初めまして。いつもブログ興味深く拝読しています。

この写真のことはよく覚えています。
今日、こちらに伺い写真を目にした瞬間、ああ、この背中の子は息絶えていたのだったなと・・・。

日本で初めてこれを含む一連の原爆投下後の写真の写真展が開かれた時に見たのだと思います。多分1992年頃、日本カメラ博物館・JCIIフォトサロンにて。

長年公開されていなかった写真ですし、当時の「スミソニアン」事件など米国事情を考えると米国にいらしてはなかなか出会えなかったのも当然のように思えます。日本で公開される前に米国でも写真展などあったようですが、おそらく小規模だったのではないでしょうか。

被写体の少年/原爆についていろいろな思いを呼び起こすと同時に、一人の率直で良心的な米国の若者(当時)のまなざしと米国という国家の冷徹さ(いくら戦時とはいえ)とのはざまも伺える写真だと思います。

4月のシカゴで雪に降られたことがあります(普通?)。
シカゴの寒さにめげずにお過ごしください。


そっか。。 (雪)
2007-03-11 07:54:50
そっか・・。この写真、ご存知なかったんですね。
かなり有名な写真です。

私もこの写真を見て、事情を知った時には涙が出ましたよ。でも、当時こんな子供が「死体の山の分だけ」いたのですものね。悲しくなります。

長崎にも行きましたよ。
くにさんも思うでしょうが、百聞は一見にしかず・・ですよね。「現場」というのは独特なものがあります。原爆の歴史を超えて、立ち上がざるを得なかった町は どこか「割り切り」と「さびしさ」が漂います。でも、長崎はとてもやさしい町で「それもこれも含めての長崎」を実感しました。いい町でしたよ。

そうやって人は、立ち上がり乗り越えて・・それが人間のすばらしい所でもあり、また同じ戦争をして同じ涙を流す愚かな所でもあり。

くにさんがおっしゃっていたように、政治も世界も「母性」にしか救えない部分がありますよね。

きっと、くにさんにとって忘れられない瞬間になったのでしょう・・。よかったですね。
この少年が どんな大人に育ったか、母である私はそこが心配です。
この写真 (りこ)
2007-03-11 20:19:36
とても有名な写真です。何度か目にしたことがあります。高橋さんがご存じなかった事に少し驚きです。

原爆や戦争中の沖縄の写真を見て、現地まで旅をしたことがあります。
ひめゆりは記念館の中に入るとすぐに涙が出るほどでした。自閉症の兄と行ったのですが、その兄が神妙になる程でした。

写真から伝わる事って本当にたくさんあるけど、その地に行く事で伝わることってあるんですね。
右傾化する日本 (bluesnow)
2007-03-14 21:58:40
この少年に、戦争をどう思うか、と聞いてみたいものですね。昨今は、防衛庁は防衛省になり、北朝鮮の核危機から、平和ぼけするな、危機感をもって「戦え」といった言葉が当然のごとく若い人から飛び出すなど、日本も日本人も確実に右傾化していると思います。「戦争は魅力的、平和は退屈」という論を私は信じています。大義名分を掲げて、国民を戦争に煽ることなど、国家権力にとっては朝飯前のことだからです。なぜ、この写真が誇りになるのか。。メンツとエゴで動く国家権力でもつぶせない、人間の底深いdignity を鮮明・尖鋭に表現しているからだと思います。この人の人生が、そのdignityに突き動かされたもの、決して復讐と迎合による自己保身だけの人生でなかったことを心から願います。
3人の息子 (ヒロシ)
2007-03-15 06:17:05
帰宅し、3人の息子に写真だけ手渡した。
この写真から何が分る?
「戦争中なの?」「何で裸足なの?」「足真っ黒だ。」
「赤ちゃん寝てるの?死んでるの」「何で気をつけしてるの」

布団に入ってからの読み聞かせの時間に
回想インタビュー部分を聞かせた。
「お父さんとお母さんはいないの?」
「白いマスクの人たちと一緒にくらせばいいのに」
「アメリカと戦争してたの?」「バクダン落とされたの?」
「やっつけられちゃったの?」「いっぱい死んだ?」

「写真」がもつ無口な伝える力(受け手任せだけど)と、
はっと驚かされる「ペン」の力(発信側の主観が入るかも知れないけど)に
感動した。
この夜、子供たちの心に何が刻めたのか。

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