笑いの四分法 「大喜利」「言語学」「文学」「演劇」

漠然とした話だけど、笑いの手法・方向性を突き詰めると「大喜利」「言語学」「文学」「演劇」の四つになると思う。例を出すと、バカリズムジャルジャル大喜利言語学鳥居みゆき言語学・文学、バナナマンやロッチは文学・演劇、友近が演劇特化、しずるが言語学・演劇みたいな感じ。
2011/2/25 Twitterにて

 上記のツイートを数ヶ月前にしたところ、非常に反響があった。これについては色々と思うところがあったのだが、Twitterの仕様上140字しか書けず、非常に漠然とした話になっている。そのため、時間が立った今更ではあるが、これについてもう少し鮮明な考えを述べたいと思う。
 この四分法は、笑いを綺麗に四つに分けることが出来る、といったタイプの学術的なものではなく、考察したり語ったりする際にこういう風に分けると直感的ですよ、という、便宜的なものだ。ある程度曖昧な分け方であるが、それは曖昧であって劣っているということではない。そういった性質であるというだけだ。むしろ、ある程度曖昧な方が実用的であるとすら言えるであろう。生物を分ける際に、イヌ科、ネコ科などと分けるのではなく、穏和、獰猛、俊敏などと分けるのと近い。そのため、完全に独立した四つではなく、それぞれが重なるところもある。図で表すならば、こういった具合だ。

 この右図である。
 では、この四つそれぞれがいったいどのようなものなのか、というところを解説していきたいと思う。


大喜利

 これは、まず大雑把に定義するならば、「発想を飛ばす距離を追求する」という方法論だ。
 冒頭の引用部にあるように、バカリズムジャルジャルが例として挙げられる。他に分かりやすい例を挙げるならば笑い飯の漫才、中山功太のピンネタなどが挙げられる。また、大喜利という名前から分かるように、最も代表的かつ分かりやすい例は、IPPONグランプリなどの大喜利競技である。
 例えば、「あったら嫌な運動会」というお題があったとき、リレーに着目するか、綱引きに着目するか、順位のフラッグに着目するか、来賓のテントに着目するか。その着目したものから、どれだけ発想を飛ばせるか。順位のフラッグに着目したとしたとき、そこからビーチフラッグスを連想するか、「人がたくさん並んでいる」という事実を別の視点から見るか、マリオのゴールの旗を連想するか。またはもっと「そもそも」の段階、「っていうか、運動会ってなによ?」という所から発想を飛ばすか。そのような発想の幅、質を追求すると、この「大喜利」の方法論になる。
 つまり、一つのお題、フリから発想の幅と質を高め、どれだけ視聴側の予想を裏切れるか というところを追求する方法論である。
 IPPONグランプリなどの大喜利競技、ボケノートなどのネット大喜利の回答をみると分かりやすいかもしれない。ただ、競技、演芸としての大喜利と、ここで解説している方法論としての「大喜利」は別のものであり、演芸としての大喜利の回答の中には「言語学」「文学」「演劇」の要素が強い回答もあるということを留意しておいてもらいたい。
 この方法論を活用するのに長けている芸人がいわゆる「天才型」と呼ばれていたり、「この能力が高い=芸人としての真の力がある」といった風潮も見られたりと、非常に重要視されることが多い方法論である。
 ただ、その重要視の根拠の一つには、この能力は先天的なものであり後天的にはなかなか身につかないという妄信もあり、実際はトライ&エラーを繰り返す努力によってある程度までは身に付く能力であるため、重要視しすぎるのは疑わしいという事実もある。
 しかし実際この能力は、「人の考え付かないことを思いつく」「さまざまな角度から物事を見れる」「固定概念を突破できる」というような、お笑いに限らない「頭がいい人」としての能力が必要であるため、重要視されることもあながち間違いとは言えないのもまた事実である。
 上記の図を見てもらいたいのだが、「言語学」と交わってる範囲が広い。これは、この「大喜利」は、「言語学」と性質が似通っているからそのように描いたものだ。同じように「文学」と「演劇」がお互いに似通っているのだが、まず次は、今解説した「大喜利」と似通っている「言語学」について解説していこう。

言語学

 はじめはこれも同じように、大雑把な定義からはじめる。これは、「言葉の新たな可能性を模索する」という方法論だ。
 冒頭の引用部で挙げた芸人だと、バカリズムジャルジャル鳥居みゆき、しずるがそれに当たる。
 具体的にネタを取り上げて、言語への挑戦について分析している記事『バカリズムの笑いの本質は「破壊」』を過去に書いているため、そちらを参考にしていただくとより詳細なところがつかめると思うのだが、ここでも繰り返し解説していく。
 冒頭の例で挙げた芸人7組のうち、過半数である4組がこれに当てはまった。「大喜利」のときと比べて非常に多い。これは偶然ではない。「言語学」は、四分法の中で最も新しく生まれたもので、悪く言えば歴史が浅い。よく言えば最先端である。そのため、新しいことを追求するのに意欲的な芸人はこれを好んで扱う傾向にある。そして、冒頭の例では、新しいことに意欲的な芸人を意図的に選んで挙げていた。そのため、過半数が当てはまったのである。実際は、芸人全体で「言語学」を追及している芸人は少数派になるはずだ。
 では、具体的に解説していく。
 代表的な例では、新たな形容詞、動詞を作る、という手法がこれに当たる。あまりチーズの味がしないものに対して「チーズチーズしていない」という言い方をしたり、ティッシュを使うことを「ティッシュる」という動詞に変えて「ティッシュればいいじゃん」という言い方をしたりする。
 また、一つの言葉の「言葉自体、音」だけを残して「意味」の部分を何でもありにする手法もこれに当たる。先ほど挙げた記事の「YOIDEWANAIKA!」の例や、こちらのTogetterまとめ「suzukosukeの冗長な退社」などがその手法の分かりやすい例だろうか。
「YOIDEWANAIKA!」の例で言うと、 

「よいではないかよいではないか」
「よいではないかと言っておるではないか」
「わしの言うことに耳を傾けてもよいではないか」

と同じ言葉が多用されていき、

「髪を切ってよかったではないか」
「それは尿意ではないか?」
「位置について、よーい、ではないか!」

 といった具合に意味が変幻自在になっていく。
 このように、既存の文法や言葉のルールを相対化し、再構築することで、今まで言葉では不能だった領域を表現する、これが「言語学」の方法論である。
 先ほど軽く触れたように、この方法論は四分法の中で最先端と呼べるものである。そのあたりについてはここでは触れないため、興味のある人は過去記事「お笑いと音楽は意味の開放へと向かっている」を参照して欲しい。
 では、次は「文学」について解説していく。

【文学】

 今までと同じく、まずは大雑把な定義。これは、「深い心情などの心の機微や、人間そのものを描く」という方法論だ。
 冒頭で挙げた例だとバナナマンやロッチがそれに当たる。他に挙げるならさまぁ〜ずのコントの一部、松本人志Visualbum、落語、などがある。
 これもまた過去記事を参照していただくと分かりやすいので、挙げておく。松本人志の映像作品、VISUALBUM評論「VISUALBUMは、落語だ」ともう一つ、「レベルの高い笑い」鑑賞講座。お笑い観を変える2つのポイント。に書いてある「気持ちを察する」の項である。いちいちリンクへ飛ぶのがかったるい人のためにここでももちろん解説する。
 この方法論の代表例は、松本人志がよく言っている「おもろうて、やがて哀し」の笑いである。自分の息子が見ている前では格好付けたい父親だが、殴られるのは痛くて嫌なので、乱暴な人相手にはつい卑屈な態度をとってしまったり、それともやっぱり格好付けようとしたり……という姿が描かれるコント「カッパの親子」などがその最たる例だ。人間の「格好付けたい」「楽なほうへ逃げたい」「悪いことをやりたい」この辺の欲を描き、その哀しさを笑いに変えるというものだ。立川談志の落語論、「人間の業の肯定」にも近いものがある。
 もう一つの代表例が、気持ちを察して笑いに変えるというものである。「おもろうて、やがて哀し」の笑いと似通う部分もあるが、こちらはもっと広い意味だ。これに関しては、例を出すのが非常に難しいため、先にあげた過去記事からの引用をもって解説としようと思う。

 例えば、かなり昔のリンカーンの企画の、「さまぁ〜ず大竹の誕生日をUSJで大々的にパーレドをして祝う」というもの。大竹はパレードのでかい車の先頭に乗せられ、オリジナル誕生日ソングが流れる中、パレードをしてもらうという状態だ。これの一番分かりやすい笑いどころは、「誕生日だからって大々的にやりすぎだろ!」ってところや、「大竹の表情」である。しかし、これに「気持ちを察する笑い」という鑑賞のポイントを用いるとどうなるか。
 それによって生まれる笑いどころは、「大竹、こんなにすげえ祝われて、うれしいっちゃうれしいけど、ここまでしてもらうことじゃないし、恥ずかしい感じもあるだろうに。しかも、こんな大勢が見てる中を連れまわされて……、微妙な心持ちなんだろうなあ」これを察することによって生まれる部分である。

 このような、言葉にしづらいような絶妙に微妙な気持ちを察することで笑いを生むというもののである。
「文学」の方法論はこの二つによって成立しているものを指す。
 松本人志がこの笑いを非常に重要視していたり、立川談志がこれを落語の極意としていたことがあったりと*1、笑いの巨人達に愛される方法論である。「言語学」を最先端のエレクトロ・ミュージックとしたとき、「文学」は長く愛されるフォーク・ミュージックといったところであろうか。

【演劇】

 おなじみ大雑把な定義から。「リアリティのあるプロットと演技にとことんこだわる」という方法論だ。
 冒頭で挙げた例だと、特に友近を「演劇特化」として挙げている。他には先ほど「文学」でも挙げた松本人志Visualbumバナナマン、ロッチ、しずるのコントがこれに当たる。また、ここで挙げたものをみると分かるように「演劇」と「文学」はセットになっていることが非常に多い。この理由は後に説明する。
 いわゆる「日常の中の日常」と「非日常の中の日常」がこれに当たる。「○○の中の"日常"」である。最終的には日常なのが重要だ。「リアリティ」と聞くと、非日常の時点でリアリティが無いのではないかと思うかもしれないが、そうではない。例を出して説明する。
 過去の大日本人の解説記事に書いてあることの繰り返しとなるが、大日本人という映画は「巨大化する男が巨大な怪物と戦う」という設定の映画だ。この時点でリアリティがないのでは、という考えもあるが、ここで言うリアリティはそうではない。初めに示される「巨大化する男が巨大な怪物と戦う」という世界の中で、リアリティがあるかどうか、ここが重要なのだ。
 例えば主人公は巨大化する際、服までは大きくならないため、あらかじめ巨大なパンツに股を通してから巨大化する。服まで巨大化するってのはおかしいでしょ、ということだ。巨大化する際に使われるのは、コンセント。コンセントで電気を流し込むことで巨大化する。変身ベルトなどではないところにリアリティがある。つまりそういったリアリティだ。
 今解説したのが大雑把な定義で述べたところの「リアリティのあるプロット」である。では、次は「リアリティのある演技」について説明していく。
 例えばしずるのコント。授業中に些細なことから二人が争うという筋書きなのだが、最後に片方が急にトイレに行きたくなる、というシーンがある。そういったシーンの場合、普通のコントだと「やば、トイレ行きたくなった……」のようなセリフを説明的に言う。しかし、しずるのコントの場合は、顔をしかめ、腹を押さえて「ト……」と一文字つぶやく程度しかしない。もしも実際現実でそういったことが起きた場合のリアリティに即しているのだ。
 つまり、「演劇」の方法論は、設定された世界のルールでの現実的なリアリティと、会話と行動のリアリティを追求するものである。
 リアリティの追求はお笑いに限ったことではなく、Jホラーで最重要とされている要素のひとつであるし、世界的映画監督の黒澤明は偏執狂的に細かいリアリティへのこだわりを見せていたことで有名だ。
 リアリティが生む効果は「感情移入の強化」に尽きる。感情移入は共感と一貫性によってもたらされるものである。そのため、現実と近いリアリティを持つ「演劇」の方法論は感情移入を猛烈に促進するのだ。また、ご都合主義が無いため途中で感情移入が醒めることも防いでいる。
 そして、感情移入がお笑いに生む効果、それは「気持ちを察する笑い」の強化である。登場人物の気持ちを察することで笑いを生むシステムなら、感情移入していればしているほど効果が強力になるのは疑う余地も無いだろう。これが先に述べた「演劇」と「文学」がセットになっていることが多い理由である。




 以上で四分法の解説は終わりである。これを使うとお笑いを鑑賞する際、語る際、分析する際、非常に見通しが良くなる。是非うまく活用して欲しい。

*1:現在では「イリュージョン」のほうに傾倒しているため過去完了形