恫喝と恐怖支配からの脱却/インターネットは日本を救ったか

象徴的かつ示唆的な松本復興担当相の事件


松本龍復興担当相の暴言とそれに引き続く辞任騒ぎは、日本の政治シーンではもうすっかり見慣れたドタバタ劇の一つではあったのだが、最初にYouTubeによるTV画像を見た時に、もしかするとこれは時代の分岐点を象徴する事件として後々記憶されることになるかもしれないとの予感が脳裏に去来した。少なくとも、今の日本が落ちた泥沼の正体を見極めるためにも、岐路に立つ日本がどの方向に舵をきるべきなのかを考えるにあたっても、非常に教訓に満ちた事件だったと思う。私同様、そのことを直感した人は多かったと見えて、内田樹氏の非常に素晴らしい分析をはじめ、本件を取り上げたブログ記事はいつになく多かった。内容的にも(つまらないものももちろん多いが)、この種の記事としては示唆に富む興味深いものが少なくなかった。本来、このようなドタバタで時間を空費する余裕が今の日本にあるはずもなく、一刻も早く事態の収拾がはかられることを祈るばかりだが、すでに起きてしまったことであるならば、せめて出来るだけ深く切り込み、可能な限り多くの教訓をこの事件から引き出しておくべきであろう。



リーダーシップも実行力もない民主党


管内閣に限らず、政権党としての民主党は、今やありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられ続けているわけだが、現実にその『リーダーシップ』と『実行力』は国民が期待しているレベルからほど遠いことは、もはや衆目の一致するところとなった。それは一人管首相や民主党だけの責任というより、日本というシステムそのものの老朽化が真の原因だと私は思うのだが、いずれにしても、どんな課題であれ、実行すべきことがはっきりしていても尚、前に進めることができないでいる。



実行力は必須とはいえ・・


そのような現状だから、復興を担当する大臣に何より求められているのは、少々荒っぽくても物事をどんどん進めて行く実行力(あえてリーダーシップとは言わない)であることは言を俟たない。 実際、昨年4選を果たした、石原東京都知事なども、荒っぽくて過去舌禍事件も何度も起こしているにもかかわらず根強い人気があることは周知の通りだ。 国民の側にも、口が悪くても、品がなくても、人当たりが悪くても、実行力があるなら今はよしとしようという雰囲気、というか一種の諦念が漂っていた。案の定、復興担当相に就任直後から、記者会見の場でも松本氏のハラハラするようなパーフォーマンスと発言が相次いだにもかかわらず、今は目をつぶって、この人がパワフルな実行力を復興に発揮してくれることに一縷の期待をかけようという空気が充満していた。だが、そこには大変大きな落とし穴があり、超えては行けない一線があったことに後で気づくことになる。



不毛なパワーゲーム


今回の松本龍復興担当相と宮城県知事との会見において、内田樹氏は、松本氏が最優先で行ったのは、「大臣と知事のどちらがボスか」ということを思い知らせるパワーゲーム、動物の世界で言う『マウンティング』だったことを喝破する。そして、そのようなボスが手下に命令するような上意下達の組織作りが競争相手の能力を低下させるとして、その実害を次のように述べる。

論争相手を知的に使い物にならなくすることによって「どちらがボスか」という相対的な優劣関係は確定する。
この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである。
よほど豊かで安全な社会であれば、成員間の優劣を決めるために、競争相手を効果的に無能力に追い込むことは効果的だろう。
けれど、それは「よほど豊かで安全な社会」にだけ許されたことであって、私たちの社会はもうそうではない。
私たちは使える知的資源のすべてを最大化しなければどうにもならないところまで追い詰められている。

暴言と知性について (内田樹の研究室)

権力闘争ゲームで知的劣化した日本


これはもう膝を叩いて飛び上がりそうになったほど共感できる見解だ。今回の松本氏のパーフォーマンスは、成長しなくなった市場を食い合う権力闘争ゲーム(ゼロサムゲーム)におけるウイニング・フォーミュラで、バブル崩壊後20年あまりに渡ってあらゆる場所でこのゲームが繰り返された結果、総体としての日本は内田氏のご指摘通り、まさに知的劣化を余儀なくされてしまった。そして、それはまだ続いているどころか、一層顕著になってきているきらいさえある。政界だけではない。経済界/企業内でもまさにそうなっている。だから、このゲームが成立しない海外勢との競争からは退場したがり、日本市場にやって来る外国人は排除し、元ライブドア社長の堀江氏のような日本人であってもゲームのルールを尊重しない人物は異物として排斥する。

「ボスが手下に命令する」上意下達の組織作りを優先すれば、私たちは必ず「競争相手の能力を低下させる」ことを優先させる。
自分の能力を高めるのには手間暇がかかるけれど、競争相手の能力を下げるのは、それよりはるかに簡単だからである。

論争相手を知的に使い物にならなくすることによって「どちらがボスか」という相対的な優劣関係は確定する。
この優劣の格付けのために、私たちは集団全体の知的資源の劣化を代償として差し出しているのである。

暴言と知性について (内田樹の研究室)


このタイミングで、『実行力』ある人物として送り込まれた松本氏が、この不毛なゲームの熟達者/体現者であるなら、これはもう日本が浮上のチャンスを自らフイにする行為に他ならないことになる。


大変由々しい状況だが、問題はさらにその先にもある。



恐るべき事


松本氏は宮城県知事とのやりとりの最後に、発言はオフレコであり、『書いたらその社は終わり』と恫喝し、実際当初は大手メディアは明らかにこの恫喝に屈して沈黙していたことが後に暴露された。政治家が恫喝し、メディアがそれに屈するというとんでもない構図だ。今回は、地元メディア(東北放送)がどういう背景かはわからないが、この恫喝に屈することなく一部始終を放映し、それがYouTubeに取り上げられて、100万回という驚異的な視聴となり、本来闇に葬られていたはずのやりとりが表沙汰になった。大手メディアが松本氏の背後の団体を恐れて普段から自主規制気味であることも同時に明らかになったため、こうした大手メディアの弱腰にも非難が集中しているが、何より問題なのは、日本がこれほど危機的な状況にある中で、恫喝が実行力のダイナモ(エンジン)である人物に復興担当相のような要職を任せようとしていたこと自体だ。如何に実行力が必須とは言え、これは恐るべき事だと私は思う。


http://d.hatena.ne.jp/Syouka/20110705/1309880096
“暴言”はYouTubeで100万回再生 辞任表明の松本復興相 - ITmedia ニュース



本当に歴史を繰り返したいのか


以前、今回の震災後の雰囲気は、関東大震災の後によく似ていることを私のブログで取り上げて書いたことがあった。だが、そう書いた私自身、今の日本で一番イメージしにくいのは、関東大震災後に勢力が急進した帝国陸海軍の存在だった。今それに相当する存在がある(いる)のか。これから出てくるとすると候補は何(誰)なのか。自衛隊は多分違うだろう。今の自衛隊は驚くほど紳士的で自覚がある。(ように見える。)では、ヒットラーや日本の軍部のような怪物に成長する巨悪はいるだろうか? 今見える範囲では、小悪はいてもスケールの大きな巨悪はいなさそうだ。どうも昭和の独裁、テロ、政権の奪取等の中核となった存在が思いあたらない、そう思っていた。だが、今回のようなことがあると、力を求める国民の心の隙をついて、意外な怪物がそっと現れ、急速に成長してしまうこともあり得ることを戦慄と共に再認識させられる

関東大震災前後に似る日本/破滅を回避する鍵とは - 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る


ヒットラーは民主的な手続きにより政権につき、日本の軍部は東北の貧農の味方として社会主義的な政策を掲げて大衆的な人気をさらった。「緊急時だから」と言う言い訳で忍び寄る恫喝と恐怖支配に隙を見せてしまうと、ことによると一気に日本の歴史が暗転する恐れも十分にある。ただでさえ空気に支配された日本は、一夜にして雰囲気が変わることが実際に起きる国である。震災直後の過剰な「自主規制」と言う名の抑圧的な相互監視の空気を思い出してみるといい。歴史は本当に繰り返すかもしれないのだ。何が何でもそれだけは止めなければならない。



何が日本を壊しているのか


上意下達の組織、隠蔽体質、村支配/村八分、悪い空気の支配等、日本のネガティブな要素が一気に出つつある時に、最後の切り札が、恫喝/恐怖支配とは何とも情け無く、また、恐ろしい話だ。日本を誰が(何が)壊しつつあるのか、この際もう一度よく振り返ってみるべきだ。



インターネットが歯止めになった


だが、今回の事件を寸でのところで救ったのは、またしてもインターネット関連だったことは注目に値する。地方放送の反逆がきっかけとは言え、YouTubeが反転のエネルギーのブースター(増幅器)になった。


米国の場合、インターネットを支える人々の中核は、『カウンターカルチャー』の流れをはっきりと受け継いでいて、IT業界の頂点に立つアップルのスティーブ・ジョブズ氏をして『Stay Foolish』と言わせてしまうような、かなり濃厚な思想性を持つ。だから、オープンソースウィキリークスアノニマスと言うように、インターネット・シーンに次々と出現する集団や運動に共通するのは『独立自尊』であり『アンチ権力』だ。


日本の場合、そこまで凝集した思想性は希薄だが、それでもインターネット周辺に集まっている人は総じてアンチ権力的で、何より『フラット化』の志向性はちゃんと共有している。日本をかつてのような破滅に導かないためにも、もう一段突っ込んでインターネット時代の『リーダーシップ』や『実行力』について考えてみるべきときだと思う。それは内田樹氏の指摘するように、日本がイノベーションと進取の気性を取り戻すきっかけにもなるはずだ。