下岡也起(SHIMOOKA, Nariki)
3月20日、広島生まれ(魚座・O型・176 cm・59 kg)。都内某ミッション系大学フランス文学科卒。

1980年代前半、ロンドンでの武者修行の旅から帰国後、パイディアやコーマなど、当時“ポジティブ・パンク”と呼ばれたバンドでギターを弾く。パイディアでは、雑誌『Doll』が運営するシティ・ロッカー・レコードから『In the dark』(アルバム)、コーマでは、元スターリンのタムが主宰するADKレコードから同氏プロデュースによる『In a coma』(EP)を発表。
「当時は、1ポンドが370円もするころで、アールズ・コートに週極の安フラットを借りて、シシケバブとフィッシュ&チップスばかり食べてたね。でも、人が言うほど、ロンドンの食事は悪くないと思うけど…」


パイディア『In the dark』


コーマ『In a coma』

パイディアの『In the dark』のレコーディング終了後、ドラムの吉田達也が脱退し、ルインズを結成。
「アルバムのリリースから解散までの約半年間は、新しい曲もいっぱい書いたし、いろんな意味で充実してたよ」

パイディア解散後、西新宿のレコード・ショップ、UKエジソンで売り子として働きながら、Rolf Vasellari著『Virgin Prunes―The Faculties of a Broken Heart』を翻訳。


Virgin PrunesのGavin Fridayから礼状として届いたポストカード

「音楽活動のほうは休止してたけど、あのころは人生でもっとも音楽を聴いた時期だと思うね。翻訳の仕事をやり始めたもあのころだし、DJもたまにやってたよ」

1988年渡米。元Christian DeathのBari-Bari率いるMephisto Walzに加入。ハリウッドにあった伝説のクラブ“Helter Skelter”を拠点に、Shadow ProjectLondon After Midnightらとともに活躍。


『L.A. Weekly』紙の広告より


ケーブルTV番組『Alternative TV』より

1992年、ヨーロッパ・ツアーを前に脱退。
「ビザの問題とか、大きい声では言えないことがいろいろとあるんだよ(笑)」

バンド脱退後も、メンバーとの親交は現在も続く。William FaithとStevyn Greyは、Mephisto Walzを脱退後、再結成したChristian Death、およびSex Gang Childrenのリズム隊を経て、Faith and the Museを結成。
「Bari-Bariがロサンゼルス郊外にスタジオをもってるし、Pro Toolsのファイルをやり取りするという方法もあるので、“トランス・パシフィック”でセッションをやろうといってるんだけど…、前世紀から(笑) 」

1992年5月、ロサンゼルス暴動後、ニューヨークに移転し、MacintoshベースのDAWやMIDIシーケンサーの正規マニュアルおよび関連書籍の翻訳に携わる。
「当時は、アメリカでもMacは高かったんだよ。IIciが欲しかったんだけど、とりあえずClassic IIで我慢し、PageMakerとQuark XPressを買って、シンセサイザーやMIDIシーケンサー、DAWの正規マニュアルの翻訳・DTPをやるようになったんだよ。しばらくして日本に帰国し、電話帳のように厚い『Mac…バイブル』とかいう本もやってますよ。といっても、この分野では、ぼくは名前をクレジットせず、影に徹してやってます(笑)」

1998年、元UKエジソン店長、佐藤・M氏がハウスDJを務める六本木パラノイア・カフェで、旧友でシティ・ロッカー・レコードのレーベル・メートでもあるハルヒコ・アッシュ(元ゾルゲ・現イブ・オブ・デスティニー)からRozz Williamsの訃報を聞き、追悼のため伝記を翻訳。


Rozz Williams(1963―1998)

「ぼくがやっていたMephisto Walzも、Rozzが当時やっていたShadow Projectも、London After Midnightも同じスタジオでリハーサルしてたし、ライブを演るのもみんなHelter Skelterが中心だったし、遊びに行くのも同じようなところだからね。Oki Dogとか…(笑)。初期のNine Inch NailsFoetusもみんな、Helter Skelterで演ってたんだよ。ハルヒコから聞いたときは、本当にびっくりした」

2001年12月、元マダム・エドワルダのZINとクラブ“Walpurgis”をパラノイア・カフェ系列のクラブ・パラノーマルで一夜限定で復活。佐藤・M、冴島奈緒に加え、現Auto-Modのユキノ、ハルヒコ・アッシュが参加。
「パラノイア・カフェとパラノーマルが閉店してしまったのは、本当に残念だよ」

2002年、冴島奈緒をボーカルに、マイケル・ハントをベースに迎え、数年来あたためてきたプロジェクト、Retinal Fetishを始動。この名前は、ジェームズ・キャメロン脚本の映画『Strange Days』に登場するクラブの名前からとられている。
「リディア・ランチとコートニー・ラブ、そしてトレーシー・ローズの3人が束になってかかってきても、負けませんよ。冴島奈緒は…。『Strange Days』は、『The Crow』とともに、この10年で、ぼくのベスト3に入る映画だから。もうひとつは、『Velvet Goldmine』か『Fight Club』かな」

2002年7月、青山・曼荼羅で開催されたイベント“Tokyo Perve V ”でライブ・パフォーマンスを披露するが、秋頃から持病の膵炎が悪化し、その後2年間にわたる入退院の繰り返しを余儀なくされる。


Photo by Maria

2003年10月、膵臓の頭部および十二指腸全体の摘出手術を受ける。
「2003年は、南青山のウチにいるより、白金の病院にいるほうが長かったよ。Doorsの再結成ライブを観に行った翌日に、脱水で入院したんだけど、体重が7 kg落ちて52 kgになってたよ。鏡を見ると、『あしたのジョー』の力石徹のようにゲッソリと痩せていた。アルコールへの禁断症状から幻覚も見るし…。10月に手術したんだけど、ベースのマイケルに、クリスマス・ツリーの飾りにするから、摘出した臓器をくれって言われたけど、手術前に執刀医に頼むのを忘れちゃってね(笑)。今考えると、ビデオも撮ってもらえば良かったと思うよ。かなりのビデオ作品になったんじゃないかな? ぼくは寝てたからわかんないけど、9時間にも及ぶ大手術だったんだよ」

2004年10月30日、Halloween前夜の“Devil's Night”に本ウェブサイトをオープン。
「この2年間、肉体と精神の両面で、自己破壊、再構築、そして“脱構築”が一段落したからね」