『千日の瑠璃』10日目——私は口笛だ。(丸山健二小説連載)

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私は口笛だ。

少年世一が日の出の力を借りて吹き鳴らす、下手くそのひと言では片づけられない口笛だ。私は、決してきのうの延長ではない未知なるきょうに向って吹かれ、控え目だが確実に狂ってゆくこの世に向って吹かれ、そして、それまでの経歴が定かでない籠の鳥のために吹かれる。だが、オオルリは応えてくれない。誰のおかげで命拾いをしたのか承知しており、さえずるための完璧な器官と必要な力は充分備わっているのに、人前では頑に沈黙を守っている。鳴いてもせいぜい短い地鳴きくらいだ。しかし、私にこめられた純一無垢で度外れの慈愛は、きっとこの幼鳥に理解されたに違いない。私はきらきらと輝く陽光によってはるか遠方まで運ばれ、亡き者の面影を偲びたがる人々が決まって仰ぐ高山、うつせみ山に跳ね返されて、ふたたび片丘へと戻ってくる。それから私は、まだ床にいる世一の家族、ただ生きているだけの三人、両親と姉の、広くも狭くもない、生傷の絶えぬ心のうちに、深く深く浸透してゆくのだ。

「まあ、あの子が口笛を吹けるようになるなんて」 と母親はそう言って声をつまらせる。父親は「静かにしろ、聞えんじゃないか」と言って更に耳を澄ます。また、朝眼を醒ますたびに意味のない媚態を作る姉は、「青い鳥が舞いこんできた」 と呟いて、私に聞き惚れる。オオルリは練り餌と生き餌を交互についばみながら、私を無視しつづける。
(10・10・月)

丸山健二×ガジェット通信

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