お坊さんが読み解く仏教マンガの世界(前編)

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お坊さんが読み解く仏教マンガの世界(前編)

私はマンガが好きである。いや、大好きである。
 大学院生の頃、漫画史研究会というマンガ研究者のサークルに参加して、マンガを構造論的に見ていく面白さに触れてからは、「自分がなぜこのマンガが好きなのか? このマンガの何に心を打たれるのか?」といった視点で、マンガを読むようになった。
 本稿は、大まかに時代を切り取り、仏教に関するマンガ(以下「仏教マンガ」と記す)に関しての流れを整理しながら、その傾向を分析することを目的としている。

彼岸寺と仏教マンガの意外な関係

 あるとき、こういったマンガの読み方の話を、彼岸寺の運営メンバーたちとしていたら、「今、水沢めぐみの『寺ガール』という作品が『Cookie』に連載中で、彼岸寺のメンバーも協力している作品なので、1本記事を書きませんか」との話をもらった。そういえば、以前も小玉ユキ『光の海』というお坊さんが主人公のファンタジー作品を読んだ後、作者のあとがきを見ると、彼岸寺住職の松本圭介くんの名前を偶然見つけて、ひどく驚いたことがあった。こう考えると、彼岸寺関係の人がマンガのプロットに関わることは、不自然ではなくなってきているのだろうし、それだけ若手僧侶の活動に世間の注目が集まってきているとも言えるのだろう。

寺ガール 1 (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 また、彼岸寺には僧侶でありながら、ビッグマイナーこと漫画家の吾妻ひでお氏に小学生の頃から師事している悟東あすかさんも連載を持たれていることを忘れてはならない。悟東さんの作品としては、2011年7月に『幸せを呼ぶ仏像めぐり <仏さま、神さま>キャラクター帳』が発売され、また臨済宗妙心寺派の月刊誌『花園』で「門前のにゃん」を、また真言宗智山派の季刊誌『生きる力』では「興教大師伝」をそれぞれ連載中である。

お坊さんのマンガの論じ方

 さて、ここで少し私のマンガ体験について述べておこうと思う。私の物心がついた頃には、すでにマンガは世の中にあふれていて、『キン肉マン』や『北斗の拳』が連載されている『週刊少年ジャンプ』を読み始め、自分でも主人公のキャラを真似てよく描いていた。そして、年齢を重ねて34歳になった現在でも、変わらずマンガを読み続けている。ところが、今では普通の光景となった”大人がマンガを読む姿”は、数十年前までの日本では、違和感を与えるものであったという。

 今でこそ日本が世界に誇るマンガ(アニメ)文化であるが、数十年前までは子どものものでしかなく、大人になったら卒業すべきもの
との認識が一般的であった。しかし、子どもの頃から質の高いストーリーマンガに触れてきた団塊の世代以降の読者たちは、大人になっても読み続けることに違和感がなく、また作者や出版社側も大人をターゲットにした教養・情報マンガの生産に成功したことで、現在の広がりを見せるに到った。

 その一方で、”いわゆる文学と呼ばれるジャンルのものと比べて、マンガは低俗なので読む価値はない”という議論が大まじめにされることがある。今現在この文章を読んでいる皆様の中にも、そうお考えの方もおられるかも知れない。しかし、この議論がその前提を間違えていることにお気づきになるだろうか。
 
 この議論は例えるならば、「虎と鷹はどちらが優れているか」という問いの立て方と同じ構造を持っていると言って良い。どちらも生物だとは言え、別系統の種族なのだから優劣をつけること自体がナンセンスであり、もし仮につけられたとしても、存在に対する優劣ではない。要は、この議論の根底にあるのはただの感情論であり、そんなことに貴重な時間を費やすのは極めて無意味である。つまり、”文字”で綴られる文学と”キャラ・コマ構造・言葉(伊藤,2005)”によって表現されるマンガは、別のモノであり、その間で優劣を論ずることは出来ないということである。

 では、同じマンガ同士であれば客観的に優劣を決められるかというと、そうも単純な話ではない。マンガ作品は、作者のマンガ表現と読者の主観的読みという異なる軸によって成り立っているものなので、差異は語れても優劣は簡単に語ることはできない。なので、私はここでどのマンガが素晴らしく、どのマンガがつまらないかといった、書評をするつもりは毛頭ない。私が今回ここでしていきたいのは、先にも取り上げた仏教マンガについて、僧侶である私の読書体験からまとめたデータをもとに述べていくことである。

まず、仏教マンガを4つに分類する

 マンガ作品というのは、商業ベースの中で生産され、我々読者の目に触れる。共産圏のプロパガンダを目的とするマンガであればその限りではないが、資本主義経済の日本においてはほぼ間違いなくそのプロセスを経る。つまり、お金を払ってでも読みたいという人の存在なしには、マンガ作品は成り立たない。利潤を追求する出版社側が「この作品には読者がつく」という判断をしなければ、発表されることはほぼないのである。

 では、仏教マンガには読者がいるのだろうか? と、考えてみた。日本は、文化的に仏教が根付いた国である。さらに、最近の仏教ブーム(私の個人的見解としては仏教ブームというよりは、 “仏像ブーム”や”寺院イベントブーム”や”若手僧侶ブーム”のような気がするが・・・。)もあって、仏教について触れてみようという人も潜在的には多くおられるように思う。

 しかし、ここで頭の隅に置いておかなければならないのが、仏教マンガの読者が、仏教のもつ豊富なコンテンツの中で、何を求めているかということを理解しておかなければならないということである。またその一方で、仏教マンガのイノベーション、つまり全く新しい切り口で仏教コンテンツを利用し、マンガとして成立させる場合も有り得るわけで、新たな読者を開拓するという意味では、マーケティングに依らないこちらの流れも意識しておく必要がある。

 ところで、そもそも”仏教マンガ”と聞くと、皆さんはどのようなイメージをお持ちになるだろうか。仏教マンガに触れたことのない人にもちょっと想像していただくと、手塚治虫『ブッダ』に代表される”お釈迦さまの物語”を思い浮かべられるかも知れない。しかし、実際にはもう少し多様な切り口で作品は作られており、私は知りうる限りの仏教マンガ作品を”ストーリーの面”から以下の4つに分類し、図1に示した。

 (I)釈尊・祖師方・名僧の伝記、仏教史
 (II)仏教説話、仏教思想、仏教教理、仏教哲学、仏教用語
 (III)現代の仏教者(及びその環境)の実情・生活
 (IV)仏教関連キャラをモチーフにオリジナルストーリーを創作

仏教マンガの4分類/彼岸寺特集「仏教マンガの世界」(吉村昇洋)

 
 勘の良い読者の方であれば、分類I・II・IIIが仏教の三宝(さんぽう)と類似していることがお分かりになるであろう。三宝とは、仏法僧(ぶっぽうそう)のことであり、「仏」は仏教をお開きになった釈尊その人、「法」は釈尊のお説きになった教え、「僧」は釈尊の教えを実践する僧侶の集団をそれぞれ示し
ている。仏教は、基本的に仏教教典に記されていることをベースにしており、それを根拠に実践を行うものである。

 分類IVは、そういった仏教経典に記された世界観の中にいるキャラ(仏教説話の登場人物や仏)を抜き出し、全く新しい話を創造したものを指す。ところが、この分類IVの中には、飯島浩介『お坊サンバ!!』のように、仏教キャラの外見や名称といった表面的な部分だけが用いられ、キャラクター性や特徴を完全に無視したギャグ作品も存在し、仏教マンガの展開はますます広がりを見せている。

 そして、今回の分類はストーリーの面から行ったことにより、仏教マンガ独自の切り口というものは存在せず、当然文学の中にも散見されるものであり、そこに差異があるとすればあくまでも”表現方法”ということになる。

あなどれない! 仏教マンガの影響力

 ところで、今でこそこのような分類をして仏教マンガを論じている私であるが、仏教マンガに大きく影響を受けたのは、高校3年生の冬のことであった。その頃私は、広島の進学校の国立理系クラスにいて、合格していた生物学系の国立大学と、滑り止めで受けた仏教系の私立大学という2つ選択肢のうち、どちらに進むか悩んでいた。

孔雀王―退魔聖伝

 そんなとき、読んでいたのが荻野真『孔雀王 退魔聖伝』だった。このマンガは密教の世界観をモチーフに、主人公が孔雀明王真言を唱えては手から火炎を出して敵を倒していくという、分類としては分類IVに属する内容であるが、それまで仏教やお寺に全く興味のなかった私が、初めて仏教的なものに惹かれた作品でもあった。ファンタジーではあるものの、「こんなにも、仏教の裾野は広く、魅力的なのか」と感動し、ちゃんと勉強したくなって結局仏教系の大学に進み、現在に至っている。このように、私の人生は結構マンガに左右されてきたのである。(余談ではあるが、私が大学在学中に、元ニューヨークメトロポリタン美術館学芸員であった主人公が活躍するストーリーの細野不二彦『ギャラリーフェイク』と出会い、博物館学芸員資格も取得。川崎市の博物館で卒業までの2年間バイトをしていた。)
 
 それからというもの、仏教をモチーフにした作品に出会えば、必ずチェックするようになった。手当たり次第読んでいくうちに、これらの図1の分類が出来上がっていったのだが、考えてみれば昔は、浄土系の寺院で「絵説(えと)き」といって、地獄絵図、来迎(らいごう)図、涅槃図、六道絵図などを用いて布教をしていた歴史もあり、分類IIに相当するものも存在していたことに気がついた。つまり、絵と仏教のつながりは、何も現代に入ってからのことではないのだ。

あらためて、仏教マンガを定義すると?

 しかも、今回記事にするにあたって、データをまとめていると、いろいろと面白いことが見えてきた。しかしそれを語る前に、仏教マンガを簡単に定義しておく必要があるだろう。ここでは、「既存の伝統仏教教団の中で扱われている仏教観をもとに、”キャラ・コマ構造・言葉”によって表現されたもの」としておきたい。ゆえに、新宗教(しんしゅうきょう)もしくは新新宗教(しんしんしゅうきょう)のものは、除外した。ただし例外として、手塚治虫『ブッダ』は、某新宗教教団の出版社発行のマンガ雑誌『コミックトム』に連載されていたが、一部の作品を除いて布教を目的とした作品群はなく、本作の内容自体も当該教団の理論を反映させているというよりは、ブッダに関する一般的な説話をベースに描かれているものであるため、データに加えることとした。(後編に続く)

書き手プロフィール吉村昇洋(よしむらしょうよう)[LINK]
曹洞宗普門寺副住職・臨床心理士。2005年11月より、虚空山彼岸寺にて『禅僧の台所 ~オトナの精進料理~』を連載し、”食”を通して日常に活かせる禅仏教を伝える他、カルチャーセンターや各種イベントにて精進料理の講師も務める。また、僧侶にとって必要な”人の心と向き合う”側面に関心を持ったことから、臨床心理学を専門的に学び、現在、広島県内の病院にて臨床心理士としても活動をしている。
 
○『彼岸寺』連載:仏教なう
 


 

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彼岸寺

ウェブサイト: http://www.higan.net/

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