競争は生活の基本原理じゃない

前のエントリーで伊沢紘生先生の発言を引用したが、同じ『サル学の現在』の中で伊沢さんは、餌場という人工的な空間と野生の生活空間とにおける猿同士の関係について興味深いコメントをなさっている。

自然界では、同じ食物をサル同士が真剣に争い合うという場面は生じないんです。食物はその辺にいくらでもありますから、ことさら争う必要がない。(中略)はじめから争いが生じないようにみんなちゃんとすみわけている。競争によって律しられていないすみわけ社会なんです。そこでは、一番強い個体も、他の個体と全く同じように生活しているだけで、ボス的なふるまいはまるでないんです。ああいうボス的なふるまいが出てくるのは、餌づけによって、同じ食物を狭い場所で各個体が同時に相争うという特殊な状況が生まれたからなんです。

さらに、今の人間社会が餌づけされたサル社会に似ているのは、「今の人間社会が、基本的に餌づけされた社会だからなのかもしれないですね」という立花隆の言葉を引き継いで次のようにも語る。

ぼくもかねがね、人間社会が競争原理によって立つ社会になったのは、農耕社会の成立によって、人間社会が餌づけ群と類似した状態になったからじゃないかと思ってました。狩猟採集時代はこんなじゃなかったはずです。人間にとっても、サルにとっても、競争は生活の基本原理じゃないんですよ。

ここで語られている競争は、限られた空間の中にある椅子を取り合うタイプの競争である。企業の中で社長を目指す、管理職のポジションを狙うなんていうのは、その典型である。伊沢先生は、農耕にその起源があるのではないかという感想を述べておられる。農耕社会というと、普段我々は協調性に彩られた社会というイメージを持ちがちだが、そうした協調や協力を前提にしなければたちゆかない組織的活動こそが競争の源泉となるという言は、ある意味で目から鱗ものとは言えないだろうか。


ボスザルは存在しない

さすがに台風の日に観光に来る物好きは少ない。おかげでじっくりとスタッフの説明を聞き、猿の様子を楽しめた。自然と立花隆の『サル学の現在』を思い出した。

当時の学問の先端的知識を著名な学者へのインタビューによって明らかにしていく同書の面白さは忘れられない。帰宅してから本棚の奥から取りだしてぱらぱらとめくってみた。あらためて面白い。やはり、現地は訪れるものである。高崎山で出会った猿たちの動作、そこで働く係員の話に引き込まれた体験の直後だけに思わず本気になって読み始めてしまい、けっきょく2時間近く古い本と付き合うことになってしまった。

当時は「ボスザルというものは存在しない」ということが、一般にはまったく知られていない時期で、その話題にはかなりのページ数が割かれている。「へぇ、そうなんだあ」と非常に興味深く読んだ覚えがある。

つまり、ニホンザルの社会はもっとも力を持つオスザルを中心として同心円的な権力構造を有する社会だと思われていた。その第一位の権力者を研究者はボスザルと呼んできた。大衆の間でも、世の中でやたらと権力風を吹かす御仁をボスザルと呼ぶ比喩が使われてきた。ところが専門家の研究が次第に明らかにしたところによれば、かつて人が思い描いていたようなボスのしたい放題といった関係はそこにはないのだそうだ。『サル学の現在』に出てくる伊沢紘生先生の話を引用する。

餌づけ群を見ると、なるほどこれがボスかというサルがすぐわかるんです。二位も三位もすぐわかる。それまでのサル研究で、ボスが群れの中でどういう役割を果たすのかいろいろ書かれてますが、それもだいたいなるほどと思える。ところが野生群に目を移すと、どれがボスかわからない。体の大きな貫禄のあるオスは、何頭かいますよ。だけど、彼らをいくら観察しても、ボスの役割とされている行動は何も観察されないんです。

高崎山でマイク片手に素晴らしい解説をしてくれた係員さんたちの話にもその話題は当然のように出てきた。かつてボスと言われていた順位1位のオスはアルファ・メイル(つまり文字通り第一位のオスという意味)と呼ばれる。伊沢先生の話にあるとおり、彼らの間に存在する順位は簡単に分かる。係員さんが、ピーナッツを手にしてテストしてくれるのだが、二匹の猿の間にピーナッツを置くと、必ず上位の猿がそれをとる。下位の者は常に譲るのである。でもやはり一般の認識とは違ってアルファ・メイルは最大権力者ではないし、確固とした義務もないという。ここまでは『サル学の現在』に出てきた話だが、次の話に驚いた。「アルファ・メイルとはその群でもっとも古くからいるオスなんです」という説明がされていたのである。つまりかつてボスザルと呼ばれていた存在とは、実際には最古参のおじいさんということらしいのである。最初に話を聞いた女性の係員の方も、二人目の男性も、同じように当たり前のことを教え諭すように話していた。

これはすごいことじゃないだろうか。高崎山で見たC群のアルファ・メイルである「ゾロ」さんはえさの時間になると、ゆったりと登場し、順位上位者のための切り株の上で悠然とご飯を食べていたのだったが、それが「群れの統率。移動の決定と誘導。外敵に対する警戒と防御。なわばりの防衛。泊まり場や菜食地の決定。群れ内部のもめごとの取り締まり。他のサルを威圧するための示威行動」(『サル学の現在』の伊沢先生の発言による)などの義務に伴う権利であれば、理解は容易である。専門家の説明によれば、そうではなくて、彼が皆から一目置かれるのは、群れのいちばん古株というだけの理由で与えられているご褒美なのである。

いちばん古くから群れにいる者がもっとも偉い社会。それって、いったいどんな社会なのだろう。思いをめぐらせてみるととても不思議だが、同時にとてもいい社会ではないかと思えてきた。敬老社会? 儒教的社会? そう言ってしまうと、なんだか堅苦しく古くさいだけの人間関係しか思い起こさないのでよくない。高崎山ニホンザルが醸し出す自由な雰囲気は、もっとリベラルな、楽しい社会を連想させてくれるのである。

昨日のコメント欄に小野さんが「しかしこう見るとサルも自分も変わらないことに気がつきますね。」と書いてくれたが、おっしゃるとおりで、高崎山にいると人間と猿と、どっちが賢いのかよくわからないという気分になる。