裾野市立富士山資料館に行ってきました。
須山口関係の資料は豊富です。
1000円で販売している富士山須山口登山道調査報告書は大収穫でした。
蔵書まで読ませてもらったのですが、残念ながら人穴口や上井出口に関しては情報がありませんでした。
【須山口登山道について】
現在の須山口は昭和のものと違うという指摘は正しかった。
宝永噴火以降はやはり昭和の1/25000に載っている登山道を踏む様子。
須山の御胎内を素直に通るルートが正解で、水ヶ塚は通らない。
じゃあ今の道はインチキじゃないかと言われると、まあしょうがないじゃない自衛隊の演習場なんだからってところが実情らしい。
須山"登山歩道"と名乗っているのもそれが理由だろう。
ただ、宝永噴火以前の話を持ち出せば今の道はあながち間違いでもないのかもしれない。
宝永噴火以前の須山口の資料が少ないのだが、宝永噴火で被害にあった年に報告としてかかれたものに以前のルートが載っているのだ。
その簡略地図では水ヶ塚(水ノ塚と表記されている)を通り、幕岩(まこ岩と表記されている)から離れたところを通ってそのまま上に登っている。
恐らく宝永火口があった当たりなんだろう。
弁当場(水場)についてもそうだ。
昭和以前のルートには水ヶ塚と同じく弁当場は経由していない。
そもそも須山地区(というか富士山体、愛鷹山体)は概ね水はけの良い地形で井戸がうまく掘れない。
よって水場が貴重になってくるのだが、わざわざ水場を避けてルートどりをするとは思えない。
思うところがあって弁当場へいってみると、立て看板にこのように書いてあった。
弁当場の今昔
建久四年(1193)将軍源頼朝は武威を天下に誇示し、将兵の士気をも鼓舞せんものと駿河の藍沢(御殿場)から富士野(上井出)に及ぶ広大な富士の裾野で大規模な巻狩を催した。
その時も弁当場は貴重な水場だったそうだ。
弁当場という名前の由来の一説である。
その頃から須山口登山道は存在していてここは馬返しに当たり、巻狩に使われたという話もある。
ついでに、その付近の山の黒塚、赤塚、浅黄塚、(恐らく白塚〜現在の平塚も)は五色の吹流しを登山道沿いの山に立てたことが由来らしい。
(五色というと残りは緑。緑に由来する山名が無いのは気になるところ。)
以上を踏まえると、宝永噴火前は今とかなり近いルートだったのではなかろうか。
【富士山須山口登山道調査報告書の誤植】
P45の明治22年発行は昭和22年発行のリスト番号85-1-3- 2図が正しい。
明治22年にこの地区の測量はされていない。
あと富士須山口登山歩道案内のパンフレットの西黒塚が西里塚になってる。
片蓋山がカタボッコになってるのもきになる。
カタボッコって北西の標高1290mの山じゃないのか?
といっても北西にもそんなピークみつからないけど。
【村山古道について】
村山古道は富士講ではない。
富士講は江戸初期に人穴でおこった。開祖は角行。(角材の上で1000日修行したから)
村山はそれ以前からあった修験者の道で、仏教的要素が強いらしい。
起点は村山浅間"神社"だが、廃仏毀釈以前は大日堂がセットだった。
浅間神社は富士山興法寺の一部である。
富士山本宮浅間大社奥宮も江戸以前は山頂大日堂であった。
廃仏毀釈により仏像は撤去や破棄された。
村山古道は天照教を通るが、これも廃仏毀釈によりできたものなので関係ない。
【側火山の平塚について】
平塚は東富士演習場内だった。
しかし土日は演習してなければ入っても特に文句言われないそうだ。(地元情報)
本当かよ→本当でした。
"入会慣行があるため、演習のない日は入会権のある人は立ち入ることが可能となっている。
このため、御殿場市や小山町の広報無線では演習の有無が放送される。入会地では茅や山菜の採取が行われる。
入会権のない人による違法侵入、特に不発弾の持ち出しが問題になっている。"
ということは、入会権(いりあいけん)を得れば昭和以前の須山口や山中口を歩くこともできるのか?
入会権を得るためにはその自治体の土地を買えばいいのか?
それとも入会費とか払えば入れてくれるものなのか?
引っ越さなくちゃだめ?不動産買うぐらいならいいけど住所移すのはちょっとな。
とりあえず、入会権をもった人に同行してもらう形にすれば問題ないかなとは思う。
この山、白塚という別名があるのでは?と睨んでいる。
宝永噴火以前の地図で平塚がありそうな場所に白塚と描かれているから。
【山中口登山道について】
昭和須山口にしろ山中口にしろ入会権があれば歩ける。
しかしそんなものなくても昭和20年代は人が歩いていた。
当時の地形図にもパンフレットにも道が載っているから。
歴史的にみると東富士演習場も北富士演習場も戦前旧日本軍が開設したもの。
戦後まもなくは米軍に接収されて、昭和30年代に日本に戻ってきたようだ。
米軍時代までは歩かれていたと思われる。
なぜ駄目になったんだろう?
そのへんを既得権として訴えれば通れるような感じはある。
もちろん演習のない日だが。
【人穴口登山道について】
有用な情報は見つからなかった。
富士宮市史なども読み込んだのだが。
人穴は角行が富士講をおこした場所なので人穴から登る道があってもおかしくないのだが。
角行は悟りを開いた当時、北口から登ったとされる。
江戸初期はまだ人穴から登る道はなかったと推測する。
【川口(口)登山道について】
川口という初見の登山道名があった。
これは=船津だろう。
船津=舟津=河口湖=河口=川口だろう。
【カケスバタについて】
カケスバタ=カケス畑
カケスは小鳥のカケスだろうか?
【吉田口登山道】
富士山は利権の山である。昔からそうだ。
今でも山梨側は静岡側と比べ商売っ気がある。
山小屋の数は多く、五合目駐車場の土産の充実も凄いし、富士山ツアーも殆どが河口湖五合目からで組まれている。
落石工事の対策も万全だ。あんなのもう自然じゃねえよと言わせてもらいたい。
これは昔からそうだったみたいで、江戸時代から登山者数は吉田口がダントツトップ。
江戸からのアクセスは良いし、入山料も村山より安かったようだ。
御師というガイドみたいなものが麓にいるのだが、須山には十数軒(人数はその数以下だったと思われる)しかないそれが吉田には百数十人もいたとか。
また、富士山は庚申(かのえさる、こうしん)年をもって御縁年となり、この年は女人禁制で二合目あたりの女人堂までしか登れないところ普段より高いところまで登れる。
村山は五合目まで登れるのだが、吉田口は七合五勺まで登れるとあったので節操がないよう感じられる。
なぜ七合五勺だったかというと、八合目以上は村山の支配下だったからだ。
山を割るのは縁起が悪い、という言い伝えも商魂からくるものだろう。
富士山は山梨から登って静岡から降りるような縦走を縁起が悪いと嫌う。
しかしそれは帰りもうちの登山道から帰ってくださいねということだ。
同じところから降りてもらえば行きと帰りで二泊してもらえる。
顧客の囲い込みというわけだ。
【山が穢れる】
山が穢れるから女人禁制とされたが、何を持って穢れるというのか。
男と女が一緒にいるとえっちなことをするから穢れるんだと思っていたがそうではないらしい。
どうも月のものがきて山を穢すのが悪いらしい。
登山をすればストレスから"きてしまう"こともあるので駄目なんだそうだ。
信心深い強力は大便をするときも地面に紙を敷いて致したそうだ。
これも山を穢さないため。
引き連れた登山者にもそうさせたらしい。
その大便は持ち帰ったのだろか。放置したら余計穢れると思うし…
携帯トイレとか最先端スタイルであるなあ。
隠れて登山した女人の記録も残っている。
1832年10月20日に登頂記録がある。
引率が偉い坊さん(もしくは修験者)だったので特例だったそうだ。
10月20日(今の歴で)なので半ば冬山であるが、これは登山シーズン中は他の登山者に見られてしまうのであえて辛い季節を選んだらしい。
【信仰登山からレジャー登山】
昔はどこの登山道も入山(ガイド)料をとったりお布施をとったり宿代をとったりで儲けていた。
(今も大差ないかもしれないが)
御殿場口登山道は入山料のいらないはじめての道だったようだ。
これは画期的なことだと思う。
富士山の登山道はだいたい浅間神社(と御胎内)がセットになっているものだと思う。
村山の御胎内は知らないが、須山、須走、吉田、船津についてはそうだ。
人穴の登山道があればそれもそうだろう。
御殿場口は信仰の道ではないから浅間神社を起点としない。
あえて言うなら御殿場駅が起点だ。
カケスバタ口(新大宮口)もレジャー登山要素が強い。
起点は大宮の浅間神社だが、富士宮駅ができたことが強い。
精進口、山中口、上井出口も浅間神社との結びつきは強くない。
【富士登山駅伝について】
金栗四三(かなぐり しそう)の発案である。
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